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自分と他人の境界線と寛容

 周囲に対する目は冷めている。取り巻く社会の中にいるという感覚よりも、社会と自分の間には見えない膜がある。その膜は、外から内、つまり社会から提供されるものは通過するが、内から外には出さない様になっている。つまり社会の甘い汁は欠かさずに吸い尽くすも、社会には不寛容。そんな人が多いように思うことがある。
 それはつまり、他人に対して不寛容ということでもある。

 個人と社会の関わりを考える際には、その人の考える自他の区別が問題となる。一般的に自他の境界線は流動的だ。多くの場合、自分意外で「自」に含まれうるのは、日常的に関係性のある人の中でも親しい人に限られている。見かけ上の社交性や面倒見の良さは関係無い。自分に都合の良い人だけが他人ではない存在になりうる。

 自他の境界線が流動的ということは、他人の範囲だけではなく、自分の範囲も大きくなったり小さくなったりすることを意味する。自分に含まれる領域のことを、時には身内と呼んだりもする。うちら、私ども、弊社、業界、日本人などとも呼ばれる。
 身内の仲間意識には何らかの契が必要で、例えば「完璧な」日本人であるためには少なくとも日本の小学校を卒業していなければならないとの暗黙の了解があるかも知れないし、同じ学校、同じ会社というのも契を交わした枠組みの一種と捉えられるだろう。

 身内に対する絆は強固である反面、他人に対しては限りなく冷たい攻撃性を秘めている。現在は身内の範囲を極力小さくする人が多い傾向があるように思える。家族はとうの昔に核家族し、それもどこか家族的でない場合がある。学生時代の同窓会も昔ほど盛んでは無い気がする。会社についても、かつてのような家族主義は無くなっていて、単に生活費を稼ぐために通う場所と思っている人も多いだろう。

 こうなると人と人の繋がりは極めて事務的になりがちで、たとえLINEで繋がっている人同士であっても、身内というよりは他人同士の、特定の間柄としての関係性のように見える。他人と思った途端に攻撃的になるハードルが下がるのは、クレーマー的な現象を見れば分かるだろう。パワハラやセクハラをはじめとしたハラスメントがこれほど気にされるのも、人々の関係性が攻撃的になっている証でもある。つまり、身内というよりも他人同士という感覚の方が優位というわけだ。

 住み良い社会は、誰かが作ってくれるもので無いのは当たり前のこと。気分良く生活するためには、他人を他人とだけ認識して境界線を引き、内側から攻撃するようなやり方はそぐわない。誰とでも仲良しになれとは言わないが、すぐに人を睨みつけるような習慣に毒されていたとしたら改めたいものだ。
 少なくとも他人に対してもう少し寛容になれれば、良い社会になっていく気がする。

おわり

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