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遊びの効用

 猫じゃらしを目の前で振ると、飼い猫は姿勢を極限まで落として臨戦態勢を取る。獲物(じゃらし)をじっと見つめてタイミングを測り、後脚で交互に小刻みなステップを踏むと一気に挑みかかる。その目は真剣そのもので、遊びなどと言うと怒られそうだ。狩りの本番に向けての訓練のつもりなのだろう。
 こちらが飽きて、もう終わりにしようか、などと言おうものなら、今度は至極恨めしそうな両目をウルウルにして見上げ、こちらをじっと見つめてくる。まさか本当にやめたりしないよね、と。

 猫にとっての遊びは狩りのシミュレーションかも知れぬが、人の場合はどうだろう。
 玩具を手にする赤子は、これまた遊びとは言えないくらい真剣で、その集中力は猫に負けていない。玩具を通して世界に触れ、指を動かしてそれが自分の身体の一部であることを確かめているのだろう。
 もう昼寝の時間だよと母親に玩具を取り上げられると烈火の如く泣き喚くのは、もっと遊びたいということよりも、自分と自分以外とを分けて認識することが出来ずに、自分と一体化してしまっている玩具を切り離される事が受け入れられないのかも知れない。

 大人になると遊びは変容して、スキマ時間を埋める為のものになる。まさしく遊びの時間に遊ぶ。
 遊んで暮らしたいなんていう夢を抱く人は多いが、もし全ての時間が遊び時間になったとしたら遊びはつまらなくなる。忙しさの中にあるからこそ遊びが充実する。

 子供は玩具を卒業するとともに、他人と遊ぶ事を覚えて行く。つまり、友達が出来る。
 友達とのコミュニケーションを通じて自分と他人の境界線や関わり方を覚えるようになる。楽しい時間を共有することの楽しみを知るようになる。

 歓びを共有するという遊び方は、コミュニケーション手段を多く持つ人間特有のものだ。
 時を一緒に過ごし、共感し、語り合い、楽器を奏でて歌い、楽しい時間を共にすることで得られる一体感は格別だ。
 大自然の中では、人は集団でいないと生き延びられない弱い生き物だったのだろう。遊びの時間を通じて戯れることは人類が生存していくための大切な仕組みだったのかも知れない。

 パブリックよりもプライベートを重視し、共感よりも私的な快適を優先し、誰かと過ごすより独りで過ごす事にプライドを見出す様な昨今の大人には、もっと戯れの時間が必要な気がする。

おわり

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