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集中できる人と、集中できない人

遺伝なのか習慣なのか、集中できる人と集中できない人がいる。
得手不得手ではなく、良し悪しの問題でもない。
できる人とできない人がいるということだ。

ここで言う集中できないと言うのは、気が散っているというのとは違って、集中の深さの話だ。周りの音が耳に入らなくような深い集中には至らない人ということだ。深く集中すべき時にそのスイッチを意図的に入れられるかどうかだ。
シュノーケリングとダイビングの違いとでも言おうか。海面近くで浮いたり潜ったりするタイプと、深くまで潜るタイプ。

集中できるタイプにも二通りあって、集中を妨げられるのを嫌う人と、集中と緩和の切り替えを巧みにできる人とがいる。つまりオンはできたとしても、オンオフできない人とできる人がいる。

人が深く集中しているかどうかは話しかけてみれば分かる。話し掛けても反応がないことがある人は、集中できる人。
例えば家のソファーで映画を見ているときなんかも、話し掛けられても大丈夫な人と嫌がる人がいる。

集中できない人にとって、集中した状態は理解できないので、集中しろと言われても「自分なりに集中してるし」と思うだけだ。

集中できない人のことを集中力散漫などという。ともすると集中できる人ののほうが正しいと思いがちと言うことなのかもしれないが、人それぞれの特徴を柔軟に活かせる社会である事の方が大切ではないかと思ったりする。


健康診断では、胴周りを測ってメタボだから痩せましょうなんて言ったりする。幸い私自身はどちらかと言えば太らないタイプなのでメタボ認定は受けたことが無いが、多くの人はある年齢層に達するとメタボに引っ掛かるようになるようだ。
そんな人から見れば食べても太らないなんて羨ましい限りのようで、何かと妬まれる。
私の場合は、そもそも胃腸が弱いから食べても身に付かないのであって、しょっちゅうお腹を痛めてトイレに籠ることがあるのを皆は知らない。

食べても太らないのが良いと言われる価値観はどこかおかしい。
食べたものをきちんと消化して栄養を吸収するのが動物の基本的な機能であるはずなのに、それが出来ていないのだから私のような人間はある意味不良品なのだ。
それなのに、そんな人の体重が標準体重と言われているのが現実なのだ。
ファッション・モデルの痩せすぎは駄目と言いながら、おっさんには痩せろという。あくまで標準を目指さなければいけないというのはダイバーシティを否定することではないか。


現代はいろいろと便利になって、衛生的になって、栄養価の高い食べ物が増えて、美味しいおやつも豊富な世界になったので、どうやら野生のままではいけないということなのだろう。
狩りをして獲物を狙っている訳でもないのに、周りの音が聞こえなくなるくらい集中してしまう私のような人は、確かに現代では役立つ面がある。しかし、天敵が忍び寄っていても気付かない状態になっているということであって、野生に放り出されれば直ぐに食われてしまうのだろう。接近する肉食獣に気付かないで夢中で草を食べている草食獣は自分が餌になる運命なのだ。

食べても吸収せず、極度に集中しないと物事がこなせない。
そんな私の様に、動物としては不良品なのに普通に生きられる人間社会は、もしかしたら気儘に自然にしているだけではとても生きづらい社会になっているのかもしれない。
不自然さに努めなければならないというのが現実であれば、ストレスフルになって当たり前ではないか。

そこまで集中しなくても物事をこなせるようになりたい。
多少太ってもいいから、腹痛がなくなって欲しい。

こんなことを言うと、贅沢な悩みだと言われそうな気がしてまたお腹が痛くなってくる。

おわり

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