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未来の世界

 レンタルビデオが全盛で、私自身もレンタルビデオ店でバイトしていたあの頃、こう言われていた。
 将来は家にいながらにして通信回線を使って映画が見られるようになると。

 正直、信じられなかったし、仮にそんなことが起きるとしても100年、200年後の話だろうと思った。
 当時のパソコンは殆どがスタンドアロン、つまりネットワークには繋がっておらず、外部との情報のやり取りにはフロッピーディスクが使われていた。フロッピーディスク一枚の容量は僅か1.44MB。今なら写真の一枚も入らない。しかも読み込みも書き込みも遅い。
 当時のパソコン上で表示される映像は画質と言うには及ばない、色数が限られたカクカクしたものだった。だからこれで映画を見るという発想はなかった。
 まして動画となれば、1秒間に30枚もの絵を送受信する必要があって、当時のパソコンには到底達成不能な能力が要求されるものだった。
 電話回線とModemを利用したパソコン通信をやっている人もいたが、これにしたって文字でのやり取りだ。こちらも動画再生は不可能な性能だ。
 動画を表示できる身近な装置といえばテレビであり、このテレビにアンテナではなくて電話線を繋げば映画が見られるようになるのだろうか。そんなことを夢想した記憶がある。

 時は2022年。
 空飛ぶ車が飛び交っているはずの未来になった。けれどあの頃と変わらず人々は電車に乗っていて、通勤の山手線内にいるわたしが車窓の外に見る空に飛び交っているのは相変わらず航空機だけだ。
 目に見えるものに限れば。

 いまや見えない電波に載って大量の情報が行き交い、それこそ映画だって手元のスマートフォン端末で見ることが出来る。
 部分的にはそうやって未来の夢が現実になっている。
 あの頃は現実感を持って想像することができなかったことが現実になっている。
 そして私達はその便利さを手放せなくなっている。

 水道だって電気だってそうだし、スーパーマーケットだってそうだ。何でも近くで手に入る便利さが今では当たり前。それは大昔には無かった。そして、それほど昔で無くても今のような便利さは無かった。

 便利さが当たり前になると、それが一時的であれ無くなると不便を通り越して支障が出る。仕事や生活が混乱をきたす。そんなことが起きる度に、頼り切るのは良くないよなと反省し何とかならないものかと想像してみるも、何ともならないものだ。今の便利が永久に無くなる暮らしは、頭の中で描くことすら出来ない。

 便利を極めた先には、人は寝たままで一日を過ごすようになってしまうのか。それとも・・・。

おわり
 


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