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映画『ある男』

 その男の名は、谷口大祐といった。
 女は次男を亡くしたことをきっかけに旦那と別れ、実家の文房具屋を営みながら、母親と小学生の長男と暮らしていた。
 ふたりは結婚して娘が生まれ、幸せな家族となったが、ある日仕事中の事故で男が亡くなった。

 そして一周忌のある日、男の兄が訪ねて来て仏壇に自分の弟の写真が無いことに気がついた。女が亡くなった旦那の写真を指差すと、弟ではないと言う。こんな男は知らないと。
 つまり、男は谷口大祐ではなかった。

 妻夫木聡演じる弁護士が、女から依頼されて男の正体を確かめる仕事を受ける。その男の本当の名前は何なのか。そして谷口大祐はどこに行ってしまったのか。


 朝起きた時に鏡の中にいる自分は、あなたの名前を纏って生活をしているだろう。何年も何十年も、あなたの名前はあなたと一緒に過ごしてきたはずだ。しかし、その名前を捨て去らなければならない事情があるとしたら、それはどんなことだろうか。そもそも、あなたに見えているあなたや、あなたが見ている家族は、本当にあなたが思うような人だろうか。
 
 人はあなたのことを、その人なりの色眼鏡で見る。
 それと同じように、あなた自身もあなたのことを正面から見えてはいない。自分のことが一番分からない。あなたに見えるのは、あなたが歩いた軌跡、つまりあなたの後ろ姿だけなのだ。
 しかし、その後ろ姿を見る必要が本当にあるのだろうか。改めて見た時に明らかになる真実を知る必要があるのだろうか。それは幸せと関係があるだろうか。

 作家平野啓一郎の著作を映画化した本作は、人が生まれながらに持たされるアイデンティティーと、それが生み出す葛藤を描き出す。謎解きのような展開の中で遠景と近景が織りなす美しい映像は、人の視点の交錯を表すかのようだ。作られた音が極力排除された日常感が、映画の中では逆に非現実感を生み出す。

 ともかく、最近のあなたは少しおかしいと言われた時には、自分の周囲を良く見直した方が良い。自分を見つめ直すのに夢中で周りが見えなくなっては本末転倒だ。

おわり



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