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ネイティブと日本人

 これを読んでいるあなたは日本のネイティブ、つまり日本人だろうか。 恐らくあなたは日本語が母国語の日本人だろうと思う。言うまでもなく、そんなの当たり前だろと思う人も多いのではないだろうか。

 そう思えることは世界中を見渡すと珍しいことなのかも知れない。世界では色々な国で色々な人種の人たちが、それこそダイバーシティ豊かに入り混じって暮らしている。例えばアメリカに住む人達がアメリカ生まれで皆英語が喋れる、とは限らない。
 特に大都市となれば、住む人の出身国も様々だし、母国語も様々で、今でも日常で使っている言語が様々な人たち同士が住んでいる街が世界では一般的だろう。

 東京都ではおよそ52万人の外国人が住んでいる。つまり約4%が外国人ということになる。それ以外の96%は日本人だ。
 対して、ニューヨークでは65%が白人だという。白人以外にはヒスパニック、アフリカ、アジア由来の人々が多い。ロンドンでも同じ様な白人比率のようだ。

 つまり、同じ大都市でも東京都とニューヨークでは「みんな」が指す意味は全く違うということだ。日本では「みんな」=「日本人」という構図が頭の中で勝手に出来上がると思うが、世界では「みんな」≠「ネイティブ(その土地の原住民)」なのだ。

 普段あまり意識していないと思うが、私達は、誰かに会ったり街で誰かとすれ違った時、私もあなたも日本人だよね、と暗黙に理解している。つまり出生地域や地方の違いはあれど、同じ国で生まれ育って、同じ言葉を話、同じ様な考え方をしているという暗黙の共通理解がある。
 だから、例えば「人流抑制」とか言われた時にも、文句を言う人はいても、考え方や立場の違いで喧々諤々けんけんがくがくの議論になったり論争になったり、あるいはデモ行進をしたりということはまずない。なぜなら、それ程までして主張やアピールをしなくても、みんな分かっているからだ。あるいはみんな同じ様な思いのはずだと皆がどこかで思っているからだ。
 だから、日本=日本人という環境でのこの国で「絆」という言葉が意味するところは、外国人が言う「絆」とは全く違うことになる。日本では絆も何も、もともと一緒なのだから。
 
 ところが、日本人はみな一緒というこの前提が、昨今は格差という言葉で分断されつつあるように見える。あいつらばかり得をしやがって、こっちばかり損をさせられるといった感情があちこちで湧き上がり、あたかも、あっちとこっちという2つのエリアがあるように錯覚してしまう。上級、下級なんて言葉も使われる。

 これまで、日本が世界と戦えた時期があったとしたら、みんな一緒という共同幻想に近い一体感があったからこそという面が少なからずある気がしているが、それが崩れていっている現代からこの先は、世界と戦うどころか自滅して、それこそ日本沈没ということになりかねない。たとそうなっても、均質な国民構成の日本人達が国内でいがみ合っているだけように世界では映るだろう。
 アニメは面白いけれど、日本人ってやっぱり不思議な人達だね、でもまあ私達には関係ないから放っておこう、となるだろう。

 そもそも、日本人が思っているほど世界では日本という国が認知されていはいない。内輪揉めをしている場合では無い気がするのだが。

おわり

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