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Netflix映画『レベル・リッジ』

 何も悪いことをしていなくても、警察官の立つ交番の前を通り過ぎる時は普通の歩き方を忘れかける。私が意識し過ぎなのかも知れないが、警察の権力が強大であることの証だ。普通の会社であれば平社員には大した権力が無いが、警察官であれば例え任官したばかりのペーペーでも、市民に対しては
他の警察官と同等の権力を備えている。言われた方は言いがかりに思えたとしても、警察官が怪しいと判断した途端にあなたは犯罪者の端くれになる可能性があるのだ。

 ある町に向かって長閑のどかな道を自転車で走っていると、突然後ろから自動車に追突されて激しく転倒した。それがこの映画の冒頭、主人公のテリーが登場するシーンだ。追突してきた自動車はサイレンを鳴らしていないパトカーだった。停止しなかった違反を見つけてずっと追跡して来たという。転倒した際に肘に怪我を追ったテリーはそこそこガタイが良い黒人。対するは田舎の白人警察官一人。警察官はすぐさま応援を呼び、まもなくもう一台のパトカーが現場に到着する。
 急ぐ用事があるので開放してくれと迫るテリーの両腕は、背中で手錠を掛けられている。逮捕でもないのに、お互いのためだという理由にならない理由で拘束され、パトカーの後部座席に座らされる。警官たちはテリーを麻薬の売人だと決めつけてデイパックの中の持ち物検査を始めると、中華料理店の包に入れられたあるものが見つかった。

 
 私自身は未だ職質を受けたことが無いが、眼の前で学生らしき人が警察官に声を掛けられるところに遭遇したことがある。3人で囲まれて詰問されれば、否が応でもかなりの威圧感を受ける。あんなことされたらたまらないと思いながら距離を置いたが、あの青年はあの後どうなったのか、この映画を見ていて急に気になった。
 アメリカの田舎町では、まだまだ人種差別はおろか、部外者に対する厳しい目があるのは、きっとこの映画通りなのだろう。そうした閉鎖的な社会では、そこでしか通用しないルールと、そこでこそ醸成された澱のようなものが漂っている。そのことに気付いたよそ者は居続けることは出来ない。

 テリー役のアーロン・ピエールは、感情を抑えるかのような喋り方で理不尽に耐える黒人の心情と、そのキャラクターの背景をも表現している。怒りの感情を爆発させていても、どこかで冷静でいられるのには理由があるのだ。

 タイトルのレベル・リッジとは、反逆の稜線という意味になろうか。稜線を越えるか越えまいか、ギリギリのところでの心理描写が鍵のこの映画。重いテーマをサスペンス仕立てに作り上げた良い映画だと思った。

おわり

 


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