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翻訳文化とアートとリアル

 文化という単語も翻訳語だと言うが、日本語は外国語を取り込むのが上手い。外国語→漢字への変換だけでなく、どんな言葉でもカタカナにすればもはや日本語だ。だいたいが、漢字だって元は外国語だ。

 日本と諸外国の融合が言葉レベルで器用に柔軟に出来てしまう我々は、すっかり日本語吹き替えや字幕、翻訳に慣れてしまった。
 テレビの中の外国人が普通に日本語を喋っているのを違和感なく、むしろ当たり前に受け止めている。

 日常、身の回りで見聞きする言語は日本語で満たされていて、公共交通機関の案内板などにはひっそりと英語表記が添えられているものがあるものの、まぁ外国人には読みづらい看板だろうな、などと人ごとながら心配してみたりすることがあるにはある。

 このような「何でも翻訳文化」は日本人にとってストレスフリーでしごく便利なのだが、逆に外国語に触れたときのストレスを高めているのでは無いかと思ったりする。
 横文字を目にした時に湧き上がる得も言われぬ抵抗感は、横文字の国の外国人がカンジを見たときのワクワク感とは真逆な感情だろう。慣れといえばそれまでかもしれないが。

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 翻訳は外国の文化を日本の枠組みに当てはめて理解しようとすることだ。だから翻訳されたものとされる前のものは全く別物ということを忘れてはならない。

 言葉には文化的背景があり、その国の歴史、生活、人々の想いが折り重ねられている。
 だから、自動車は英語で「カー」と言います、という翻訳はそれで正しい面があるが、carが「自動車」かというと、そうでもない。英単語と日本語単語は全く同じ意味でないからだ。

 日本語で語られる言葉は、日本の文化と切り離せないもので、日本の生活や習慣を知らないと理解出来ないことも多い。逆に、日本語で考えていながらにして、海外のことをリアルに想像することは難しい。
 外国人が母国語で語ったことを、日本語に翻訳したとき、話の内容にもよるが、その外国人が言おうとしていたことの大半が落ちてしまう。つまり言おうとしたことがちゃんと伝わらない可能性の方が高い。

 店員は笑顔でなければならないとか、頼んだメニューと違ったものが出てくることはまずないとか、買ってきた製品が壊れていることはめったにないとか、日曜日はショッピングとか、お客様は神様とか、電車は時刻通りに運行されるとか、多くの日本人が当たり前と思っていることの多くは、世界ではむしろ異常と思われる。
 店員と客は対等な契約関係なので不必要にへりくだる必要はないとか、人は時に間違うので間違っていることがあって当たり前とか、日曜日は安息日だからお店は閉めるとか、神様はお客ではなく宗教の話だとか、電車は遅れて当たり前とかいうのが当たり前の人からみれば、日本人の「ホスピタリティ」や「コンビニエンス」は、すごいけど別に真似はしたくないよね、ということ。

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 私は洋画(映画)が好きで、吹替よりも字幕版を選んで見るが、字幕なしで何を言っているか理解出来ない限り、そこに描かれているものは理解出来ないのだろうと思っている。私は不勉強な故に言っていることを母国語のようには聞き取れないが、時々感動して涙が出るのは、映画が言葉のみで描かれている物語ではないからだ。

 私は音楽が好きで、海外アーティストの曲も良く聞くが、思い返すと歌詞を読み込んだことは殆どない。インスト曲を聴くことも多い。けれど感動に震えることがあるのは、音楽が音楽でしか表せない何かを伝えているからだ。

 私は絵心が無いが、ごく稀に訪れる美術館に展示された海外の油絵の前で立ち止まって暫く動けなくなるのは、絵画が絵画でしか表せない表現で何かを伝えようとしているからだ。

 私は海外の小説が好きで翻訳本を読むが、日本語で綴られた海外の話に心を動かされるのは、そこで語られているのが言葉で説明された何かではなくストーリだからだ。

 映画や音楽や絵画や文学が国境を越えて伝える力を持っているのは、伝える道具としての「言葉以上の何か」だからで、それこそが芸術の力だと思う。
 芸術は何かを伝えるための強力な媒体であり、言葉では表せない感情をダイレクトに伝えてくる。むしろ言葉こそ、リアルのごく一部を切り取るのみで、現実とは程遠いことが多いのだ。

おわり

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