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アラートは誰のため?

 今日は暑いから運動しないほうがいいよ、とか、大雨が降って危ないから避難しろよ、とか。いろいろと教えてくれるから便利な世の中になったものだ。
 しかしどうだろうか。
 熱中症警戒アラートを出した場合と出さない場合で何か違いがあるのだろうか。アラートが出ると熱中症になる人はどのくらい減らせるのだろうか。それとも、アラートが出ないと自分の身を守ることも出来ないくらい退化してしまったのだろうか。

 大勢の人に対して発せられるアラートが効果を発揮するのは、全員が受信して、かつ、全員がそれに従うという暗黙の前提がある。アラートを知ってそれに従ったにも関わらず不運にも熱中症になってしまったなんて人はいないだろうから、熱中症になる人は、アラートを知らなかったか知っていたが無視したあるいは軽視した人だろう。単純化して言えば。

 熱中症アラートが出る条件は決まっているから、気にしている人であればアラート発報を待つまでもなく警戒して対策しているだろう。そしてアラートにも注目しているだろう。
 だから、自分は大丈夫と思っている人こそが何の対策も対応もせずにダメージを被る事になる。
 つまり、アラートを出しても出さなくても、結果はあまり変わらないのではないかと思うのだ。
 熱中症の危険性を知っていて自ら対策をしている人は熱中症にはならず、軽く受け止めている人が熱中症になると。

 もっとも、例えば学校行事などで、忖度や空気を読む必要性の度合いが高いと個人での対策は難しい。どうしても主催者判断によらざるを得なくなって、生徒の自主判断で不参加や途中退席をするのは余程の強い意志を持った生徒でないと出来ないことだ。
 裏を返せば学校では自主性を重んじると言いながらも協調性はもっと重んじている。そしてこのことは、社会一般でも同様だ。ある程度は仕方が無いことだけれども。

 今のようなアラートが無かった頃、私たちはどう対処していたのだろうか。例えば熱中症で言うと、昔は今ほど暑くなかったのだからアラートを出すまでもなかったのだろうか。いやいや、暑い日はあったし呼び方は違って日射病などと呼ばれていた。母から良く注意されていたのを思い出す。

 全然見当違いかも知れぬが、自分の限界を知っているかどうかということではないか。ひいては様々な点で自分の身体のことを知っているかどうかではないか。
 日常的にエスカレータやエレベーターを使い、終始空調の効いた部屋で過ごし、一年中収穫される旬の食べ物によって本当の旬とは無縁になった私たちの生活は、常に快適領域にいる事が当たり前になった。最適温度が快適温度になって、晴れだけが良い天気になった。自然の恵みに感謝するよりも自然の脅威に振り回されている。

 元々自然は脅威でも何でも無く、自然に抗って文明を築いたことのしっぺ返しを受けているに過ぎない。人間の手でどうにかしようと思うからどうにもならないことに目が行くのであって、殆どのことは人間の技術では何とも出来ない。
 便利なことが当たり前と思う感覚はそろそろ見直した方がいい。便利の意味、つまり物事が支障なく進むことなんてレアケースであることを認めた方がいい。

 上手く行かなくて当たり前で、上手く行けば儲けもの。いろいろとトライしてみて失敗したとしたら、成功にひとつ近づけるのだからラッキー。そんな考え方をするアメリカは楽天的過ぎるのかも知れないけれど、失敗するとすぐに責任を問うようなやり方よりも健全な気がする。

 誰かが決めた閾値を超えたら出るアラートはあなたには当てはまらないかも知れない。平均値に頼るのは安心出来るだろうが、絶対安全ということでは無いのを忘れてはならない。

おわり



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