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暗闇を吐露する場所が無い現代の闇

 マスク警察のように、正しいことを絶対化した倫理基準を広めることは、多様性とは真逆だ。
 世の中はもともと多様性に満ちている。一人ひとりの顔や正確は違うし、人生の道のりも経験値も違う。
 生物は多様であることでこの地球を生き延びてきたと言っても過言ではなく、多様性は自然そのものだ。
 ところが、共感や同意や信用を元に社会を作る人間にとって、多様であること対立するきっかけにもなりうる。
 社会のルールやモラルは多様な人々の共通項を抽出したものであるか、あるいは権力や暴力によって強制されたものだ。
 多様性を無制限に認めることは身勝手を増長し社会を混乱におとしめるというのが絶対的正義を追求する人の気持ちだろうか。

 ややこしいのは、絶対的正義を主張したり強要しようとする人の中には似非者えせものがいることだ。人に絡みたい、そのことで注目されたい、存在感を示したいというだけの、正義とは無関係な人がいることだ。
 きっと、正しいことを語ることは正しい、という再帰的な迷路に入り込んでしまったのだろう。プログラミングでは便利な再帰的な記述は正義の表現には適さない。
 正しさそのものにもある程度の多様性があって、絶対的に正しいことは有り得ない(という論も正しくない可能性がある。ということも正しいかどうか分からない・・・・・・)。

 あるユーチューブのコメント欄で、人としてどうかと思うとか、こんなことを言っている人を放置してはいけないとか、何故このような意味不明の人とコラボするのですかもう登録解除しますとか。
 あなたが勝手に見ている動画にあなたが勝手にコメントするのは勝手だが、強制的に見せられているのならまだしも、自由意志に基づいて見ているのなら建設的なコメントにしたい。こんなの見たくないとコメントするなら最初から見なければ良い。それでもそうするのは、もちろん意図的だからであって、正義を振りかざすことで社会の浄化を試みているか、相対的に自らの位置を上げて見せることで落ちた地位を向上させようとしているのかもしれない。
 もちろんそんなことでは地位は高まらないから卑屈な心だけが増長されてしまい、ますます攻撃的にならざるをえなくなる。

 そうだとすれば、マスク警察やコメント欄に跋扈ばっこする正論者たちは実は架空の正論者で、正義や多様性とは全く別で、ダイバージェンスについての心配は杞憂きゆうだ。
 正義を振りかざして見えるけれど、論理よりも鵜呑みにした知識に頼るという硬直し切った思考の貧困がそうさせているだけで、自分を守るにはそうするしかないのだ。つまりそれが彼ら彼女らの生きるすべということだ。
 もしかすると正論を振りかざして攻撃的な人は、単に相手をして欲しいだけ、聴いて欲しいだけなのかもしれない。理路整然と説明する知恵が無く、人付き合いが苦手だとすれば、日常会話の中では救われる道が無く、ネットの中での誹謗中傷に生きるしかないのかもしれない。

 誰もが心の内を打ち明けられる友人を持っているとは限らない。
 たとえ気心知れた友人にさえ打ち明けれない心の闇を背負って生きている人もいるかもしれない。そうなると、友人にも言えないそれを誰が聴いてあげられるのか。
 親しい人だからこそ言えない闇があるかもしれない。こんなことを言ったら嫌われてしまうかも、と思えば言い出せないだろう。
 そんな心の闇を誰も持っていなければ問題ないが、現代では残念ながら多くの人が闇を抱えて生きていると思われる。
 ネットの中で匿名でなら打ち明けられるかと言えば、そんな場ですら仮面を被って攻撃性という盾で自分を守ることしか出来ない。
 そんな人が少しでも減っていく世の中になって欲しい。

おわり

 
 
 

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