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社会規範と個人の自由

 代表取締役社長が、不倫をしていたとしてその職を辞任し、会社が謝罪する。
 そこに違和感を覚えないとしたら、そんな社会はコワイと思う。
 まず社会がありその一員が個人で、個人は社会の一員である以上、正しく在らねばならない、という文脈と似ている。

 法の成り立ちは、こうだったはずだ。

 社会にはルールが必要 ⇒ ルールは明文化しよう ⇒ 明文化されたルールを法として整備しよう ⇒ 社会の法は守らなければならない

 この根底にあるのは、様々な考え方を持つ存在としての個人の集まりが社会だという考え方。そして、個人個人は自由であるという発想。
 社会には法の他にも、明文化されていないルールもある。慣習や不文律と言われる社会の暗黙のルールも間違いなく社会規範の一部だ。
 どうやら、明文化されていない社会規範のもとでは、自由な個人である以前に、個人は社会の一員としてのルールに縛られるという側面が際立っているように私は感じる。

 明文化されたルールと不文律のバランスは社会によって違うだろう。世界で共通しているのは、社会には守るべきルールがあって、それが社会の構成員で共有されているということだ。

 ところで、社会規範というルールは「正しい」行動を直接的に規定できるものだろうか。つまり社会のルールとして「何が正義か」を共通のルールとして整備できるものだろうか。
 正義という言葉の定義にもよるが、広い意味では国際法や憲法で保証されている様々な自由は法で定められた正義の一つだろう。つまり「何々の自由」を侵害することがあれば、それは「正義」ではない。 

 さて、それでは不倫はいけないことなのか。
 不倫をすると逮捕するといったような明文化された法律は無いから、あるとすれば不文律としての社会規範だろう。そして、不倫が良いか悪いかで言えば、良いことではない、つまりやって褒められるようなことではないとうのが共通認識だろう。
 しかし、こうした良し悪しの考え方にはグラデーションがある。このグラデーションは国によって違うし人によっても違う。褒められこそしないにしても、そこまで悪ではないという人もいておかしくない(あるいは悪いことと思っているからしてしまうのか)。

 殺人犯が裁かれるのは、「殺人は悪いこと」という共通理解が社会にあるからであることには違いないが、法的には殺人が悪いことだから裁かれているというのではなく、法にそう定められているから裁かれるだけだ。そして、法には善悪といったような倫理観に関する記載はない。
 それに対して不倫は、法には無いけれど社会的に「不倫は悪いことというのが大半の人の意見だろうから善悪で言えば悪だと思っておいた方が良い」という倫理観によって判断される。あるいは「もし自分が不倫された当事者になったとしたら到底許せることではないので悪に決まっている」という倫理観かもしれない。
 不倫による被害者は当事者以外にはいないのだから、個別の不倫事案については当事者の間で善悪を判断すれば良く、一般論を持ち込んでその本人に対して赤の他人が正義を突きつける必然性は無い。

 ところで、冒頭で登場した退任する運びとなった某社社長は、社長として評判が悪かった訳では無い。つまり仕事上で何か誤りを犯して会社に損害を与えた訳では無い。あくまでもプライベート領域で不道徳とされる行動・行為をしていたということだ。
「人間的に悪い人が経営のトップにいるのは悪いことだ」というのは直感的には正しい。しかし「悪いこと」が法に触れるもので無い場合、逮捕・拘束されて事実上業務が行えなくなるということは無いから、単に道徳的に良くないことをしたからと言って経営者を辞任する直接的な理由にはならない。清廉潔白を求めたくなるのは分からないではないが、電車の中で眠った振りをしてお年寄りや妊婦に席を譲らなかったからと言って、社長でいられなくなるということは無い。

 まして、社長個人の極めてプライベートな所業をもって、会社が謝罪を表明するというのは、私には理解出来ない。いったい誰に対して謝っているのか。謝る必要があるのか。その謝罪を聞いた赤の他人が満足することがあるとしても、そのような謝罪を赤の他人が求める権利はない。

 個人の自由と社会規範の関係は確かに難しい問題だ。
 社会規範から逸脱する個人が多ければ社会は成り立たない。しかし、もしそのような状況があったとしたら、つまり規範とされていることから逸脱する人がとても多いのだとしたら、もはやその規範は社会規範ではないということになる。多くの人がそんな規範はおかしいと思っているということなのだから。

 そう考えると、個人に優先されるのは規範ではなく自由ということだ。社会規範が先ではなく、自由の方が先ということだ。
 だからこそ個人の自由は法律ではなくて憲法で保証されているのだ。法律は個人の行動を規定するものだが、憲法は個人の行動を規定するものではなく、国家の行動を規定するものだからだ。そして法律は国が定めている。
 要するに、国は個人の自由を侵害するような法律を作ってはならないということだ。つまり社会規範は個人の自由を縛るものであってはならないということだ。
 それが民主社会であるはずだ。

 ただし、自由と勝手は違う。それを誤解してはならない。
 双方が同意した契約の下では自由が制限されることもある。契約に同意しておいてそれを反故にするのは「自由」ではなく「勝手」だ。

おわり

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