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恋に落ちる前に

 最初にお断りしておくと、私は精神医学や心理学の専門家ではないので読み流す程度にして貰った方が良い。ましてや聖職者でも無い。つまり、素人の戯言なので惑わされない方が良い。

 人は親密さを感じると、相手のことをもっと知りたいと思ったり、相手にもっと知ってもらいたいと思う。ここで相手が恋愛対象になり得る性であった場合、親密さが十分に深まると、自我同一性が和らいで精神的な融合が起きる。想いが溢れてふとした時に相手のことを考えてしまう状態だ。
 この時陥りやすいのが、この精神的な融合状態こそが愛だという認識。あの人の事を忘れられなくなるのは愛でも何でも無い。強いて言うなら恋だ。
 精神的な融合状態はまた、子供が幼い頃の親子関係とも同じため、自立していない者同士が恋に落ちた場合は共依存になり易い。過剰に付き纏ったり過剰に世話を焼いたりしたくなったら要注意だ。相手が望むうちは問題にならないが、そこまでやってくれなくてもと思われだしたら、ただのストーカーになってしまう可能性がある。

 このことを踏まえると、恋をするには少なくとも人として精神的に自立する事が重要になるはずだ。
 では、精神的な自立とは何だろうか。
 端的に言えばそれは、親離れだ。
 親離れとは、子の側だけの問題ではない。親の子離れがセットにならないと、親離れは完成しない。普通は親離れと言うと、親と自分は別人格であり意思決定を自分だけで出来る状態と思うだろう。それなら親が嫌いな人は最初から親離れ出来ていると思うのは間違いだ。嫌っている時点で親のあなたへの精神的な影響力は甚大で、親離れとは対照的な位置にいることになる。
 つまり、自立するには良くも悪くも親の存在を受け入れられなければならない。

 自立した人同士が恋に落ちると、一時的にそれぞれの自己の境界線が曖昧になって、二人だけの世界が出来上がる。その融合状態を経て再びゆっくりとそれぞれの個人としての輪郭がはっきりしていく。この時、境界線上にある膜が、それまでは外部から遮って自己を守る為のものだったのが、外部を受け入れる為の受容器と外部にエネルギーを供給する器官へと変貌する。これは子が親離れして精神的に自立していく過程と同じだが、決定的な違いは相手が赤の他人ということだ。
 他人を無条件に受け入れて、無条件に提供する事が出来たなら、それは愛と呼ばれるものだろう。

 愛しているかと問われるように、愛は動詞、つまり行為の一種と思われがちだ。しかし実際は、愛は精神状態のことだ。個という枠組みを超えて他人をも自分と同じ様に捉える広い心の状態を言う。
 他人の範囲は親族といった親しい間柄に留まるのが普通だろう。それが世界にまで拡張出来るのは聖職者くらいだ。

 私を含め多くの人は愛を知らない、あるいは極めて限定的な愛しか知らない。それどころか現代では、自己愛が幅を利かせている時代だ。だからどうしても、私が愛する、という考え方になる。私が愛されるという見方になる。
 そんなつまらない自我など取っ払ってしまえれば、どんなにか素晴らしいだろうにと思うのだが、なかなか思うようには行かない。
 しかしいまさらながら、falling in love とはなかなか良い言い方だな。

おわり

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