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マキシマリストの逆襲

 断捨離とは無縁の私の生活はモノで溢れている。
 最小限必要なものだけで生活出来ないのかと言えばきっとそんなことは無い。日々使用しているものなんて数知れていて、その他のモノは無くても困らないものだ。きっと。

 例えば、壊れて映らないPCモニター。
 こいつが厄介なのは、時々映るようになるからだ。きっと内部のどこかの接触が悪いだけなのだろう、暖かくなると普通に使える。しかし寒くなると画面に何も表示されなくなる。一度は分解して修理を試みたが、見たところどこも悪いところは無く断念した。
 そう、問題は修理して使おうとするところだ。
 この間ようやく捨てたが、エアコン用の壊れたリモコンもずっと取ってあった。新しいのを買ったのだから捨てても良いのだが、リモコンごときは修理出来るだろうと思い分解する機会をうかがっているうちに1年以上経っていた。

 物を大切にしなさい。
 そう言われて育ったからと言うと親のせいのようになるが、気軽にはモノを捨てられない性分。時々引っ越しを強いられるような暮らしであれば自然とモノは減るのだろうが、そうでも無ければ使わなくても取っておけばいつか役に立つという想いが拭いきれない。
 
 そんなことだから、読書でもどちらかと言えば積読つんどく派だ。
 これ読みたいと思って購入しても、ずっと積まれたまま。本棚の肥やしにはなれど、一向に自分の肥やしにはならない。
 しかし不思議なもので、電子書籍を利用するようになってからはスマホ内の未読書籍はあまり増えない。これはきっと、本というモノの本質をうかがわせることなのではないだろうか。
 つまり、本を買うというのは必ずしも読むことが目的ではなくて、本屋内を散策すること、本を手に取ること、それを購入すること、そして本棚に並べること。そういった一連の動作というか仕草というか、それが楽しいという側面は絶対にある。
 積読目当てで本を購入するのでは決して無いが、自室の本棚に並んでいるのを見て充足する気持ちがあって、それは心を豊かにしてくれる。知識は豊かにならないが。

 きっとミニマリストの方がこんな話を耳にすると、だからあなたは整理が出来ない、モノが減らないのですよと怒られそうだが、それは満足感の置き場所が違うだけ。整理してスッキリした部屋を眺めて満足する気持ちが私に無いわけではないが、気に入ったモノを自分の近くに置いておくことでも得られる満足感がある。要するに、自分の中でどっちが勝つかという話だ。
 モノが無い満足感か、それともモノがある充足感か。

 自分の子供たちが大人になってみて、私自身、親としては失格だったと気付いた。子供たちに物を大切にしなさいとは教えて来なかった。
 それでも二人の子のうち一人はモノが好きそうだ。これはきっと妻の遺伝子を受け継いだのだろう。
 もうひとりは割とミニマム派。
 彼は私の遺伝子の一部を引き継いだのだろう、と言いたいところだが、言える訳もない。
 ということは、突然変異だろうか。
 いや、きっと今に積読書籍に埋もれるに違いない。

おわり

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