見出し画像

21世紀の歴史を読んで思ったこと

まず、「21世紀の歴史」というタイトルが面白い。未来を予測することは難しいけど、歴史を学び、過去から現在、そして未来へとつながっていく流れを把握することはできる。21世紀の1/5が過ぎた今読んでも、まだ新しい。(一部は、もはや当たり前のことになっていて、それもまたすごい)

21世紀、人類が平和で幸福な世界を生きるためには、市場を適切にコントロールし、世界規模の民主主義を形作ること(「超民主主義」の実現)が重要らしい。
今話題のSDGs(持続可能な開発目標)などは、まさに超民主主義の実現に向かう流れの一部なのではないかと思う。
市場を通じて物、サービス、富を分配するシステムは、誰もが参加できるという点では「自由」だが、貧富の格差を拡大させている。一方、共産主義のように、計画経済で市場を完全にコントロールすることもうまくいかないことは明らかかだ。結局、バランスが重要ってことかな。(ありきたりな結論になってしまった)

人類の歴史を振り返ったとき、「個人の自由の拡大」という大きな流れがあるとのこと。
確かに…!という感じがした。特に、人権が発明されてから、個人の自由は急拡大している気がする。
人間1人ひとりが権利をもっているなんて、おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんの(以下略)ぐらいの世代に生きた人たちからしたら想像もできないんじゃないかなって、ときどき思う。今はだれもが信じているし、むしろ一つの宗教といっても過言ではないのかも…?

ちょっと脱線するけど、権利の始まりってどこなんだろう?やっぱり所有権とかが最初なんだろうか。所有って、おそらく「これはあなたの、あれはわたしの」っていう契約があるから成立するんだよね?人権のスタートと社会契約説的な考え方のはじまりって時期的に近いのかな。おもしろい。

本の中で結構面白かったのが、「超帝国」「超民主主義」の世界の主役となる人々の暮らし方の描写。「超帝国」だったら、例えば「国を持たない」「孤独」「性に奔放」とか。生殖と性欲が分離されていく、みたいな話が興味深かった。生殖がもっと科学的な営みになったりするんだとしたら、デザイナーズベイビーみたいなものも当然出てくるだろうし、家族のあり方も変わっていくよな〜と。
「すばらしい新世界」というSF小説を思い出した。ディストピア小説で、人間を工業的に生産し、効率的に社会を回していく世界の話。遺伝子が設計される段階で「階級」が定められていて、どんな仕事をするかも大体決められている。人々の気晴らしは乱行宗教とドラッグ。「超帝国」の世界に似ていると思う。ある意味ユートピアだと思うんだけど、どうだろう。
「超民主主義」の世界の主役は「トランスヒューマン」=愛他主義者(金銭的なインセンティブよりも他者からの敬愛・尊敬が報酬になる)、ということらしい。いまも多分そういう人はいるんだろうけど、主役になるほどマジョリティになることがあるのかな…?(人数的にではなく、権力的に?)疑わしい。

あと「死そのものや、それに付随するもののサービス化」という話も面白かったな。擬似自殺、危険なアクティビティなど。ほんとに自殺するわけじゃなくて、自殺みたいなことが体験できるサービスがあったら自殺する人が減るんじゃないかなって考えたことがあったから、「なるほど〜、そういう経緯※でサービスが生まれてくる可能性があるのか〜」と思った。でも、サービスってことはお金がかかるわけだから、擬似自殺も富裕層の娯楽にしかならずに、「無料」の自殺の数は減らないとか、そういう可能性もあるよな。(※人間にとって得難いものの価値が高まる→得難いもの=時間=時間の価値が高まる→人生(生きる時間)の最終的な通過点である死、その周辺のサービスが生まれる、的な流れ)

ちょっとここまで、本の構成をガン無視して、思ったことをただつらつら書いてしまった。作者は「超帝国」「超紛争」状態(第1〜2波)がまず訪れるが、途中で人類はその悲惨さに気づき、「超民主主義」(第3波)を実現する、としている。だから、「超帝国」のような世界(市場が唯一の法になる、徹底的な商品化・サービス化、人間疎外)は完全には実現しないかもしれない。…というニュアンスを私は感じた。

個人の自由がさらに拡大されて、究極な自由を手に入れたらどうしよう。人生をかけて、自分がどんなときに幸福を感じるのか知るためにいろんなことに挑戦できるし、幸福を感じることだけに集中できるはず。幸せだな〜。そんな未来が自分にはなくても、自分の子供や孫の世代には少しでもあるといいなあ。
親ー子供という関係も「自由」を制限するから、そんな時代になったらそういう意識もないのかもしれないけど。

ジャック・アタリは、「超民主主義」の時代になると人々は「心地よい時間を求めるようになる」と言っている。心地よい時間=自分自身の現実の中で暮らす時間=意識的・無意識的に自らの才能を開花させることができる時間。これって、エチカの考え方と近いと思った!エチカでいうところの「本姓の必然性」にしたがって生きる、と同じ考え方だと思うんだよな。
エチカでは「活動能力の増大=喜び」と定義されていて、「活動能力の増大」=自分のできること、やって楽しいことを増やす=才能を開花させる、と考えてよい気がする。

現実の中で暮らす時間、という言い方もよく考えると身につまされる…。youtubeみたり、Netflixをみたり、そういう時間って自分自身は観客でしかなくて、現実の中にいるという実感がない。友達と会ったり、運動したり、本を読んでアウトプットしたり、お出かけしたり、そういう時間が大事だよな〜と改めて思った。


エチカの話が中途半端になってしまったけど、書きたいことがたくさんあるので、次回はエチカです!!!(たぶん)

おまけ:今回のBGM


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?