極北カナダ Vo.3 通過儀礼 『 −30℃のテント暮らしに到る道 』
”今回の相手は大自然。自然は立場的に中立的なものなので、時には何にも変えがたい感動、そして時には逃げたくなるような恐怖を突きつけてくる。人が介さない分だけ、自分の行為や判断がそのまま自分に跳ね返ってくる。その人間のさじ加減がきかない無慈悲さに引かれて、多くの人が自然に入り、若者は冒険へと出かけていくのだろう。”
Vo.2のお話の続きです。(Vo.2はこちら↓)
世界のあらゆるところで通過儀礼が存在する。若者が何かの試練を通して大人になっていくというもの。近代以前の社会では、抜歯や刺青などの何かしらの身体的な苦痛を伴うものが多いという。日本でも社会問題となった、会社やサークルなどので後輩への一気飲みの強要も、おそらくこの通過儀礼の名残だろう。どの時代になっても、人間は大人になるために、何かしらの変化や試練的な物を経験しないといけないないのかもしれない。
今から思えば、自分にとってはこのアラスカの独りカヤック行が、大人へと変わっていく一つの通過儀礼であったのだと思う。アラスカの海に独りで出かけることは、様々なリスクが伴う。転覆による低体温症、風と潮で流されてしまう危険。施設のない森のキャンプでは、当然クマも存在する。これらを全て体験することで、大人になろうとしていたのだろうではないか。
社会的枠組みの中での通過儀礼と違って、今回の相手は大自然。自然は立場的に中立的なものなので、時には何にも変えがたい感動、そして時には逃げたくなるような恐怖を突きつけてくる。人が介さない分だけ、自分の行為や判断がそのまま自分に跳ね返ってくる。その人間のさじ加減がきかない無慈悲さに引かれて、多くの人が自然に入り、若者は冒険へと出かけていくのだろう。
2004年の初夏、シーカヤックに荷物と釣竿を積み込み、南東アラスカのケチカンの街を出発した。湾内には夏の観光用の巨大なクルーズ船が停泊している。巨大な船の真横を通って出港して行ったのだが、クルーズ船とカヤックでは、像とアリほどの大きさの違いがある。水に浮かぶ同じ船とはいえ、これほど目的が違う乗り物はないかもしれない。クルーズ船が動き出して轢かれないように、さっさとパドルを掻きながら、湾の外へと向かって行った。
今回の旅はRevillagio Island という島の一周だ。使う時間は約3週間。全長は約200キロなので、急いで行けば10日ほどでいけるかもしれない。ただ今回の旅はレースではない。アラスカの自然にどっぷりよ浸かり、これからのことを考えていく旅なのだから。
湾を出て行くと、先ほどまでいた街並みが段々と小さくなり、郊外の家が見えてくる。南東アラスカには道路が発達していないため、島外の移動は船か飛行機しかない。その為、街を一本出ると、深い温帯雨林の森が広がっているのだ。
旅の初日は気分良く、開放感を感じながらどんどんとカヤックを漕ぎ続けた。お昼休みにと海岸でスナックを食べていると、この旅で初めて野生動物に出会した。昔の修学旅行で行った、奈良でみたような鹿少し大きくした感じだ。こちらを不思議そうに見ながら海岸に立っている。(シトカ・ディアという鹿で、南東アラスカで時折見かけることのある鹿。)鹿はこちらを見ながら、何故かどんどんと近づいてくる。人に慣れてしまっている動物なのだろうか。
この頃は、まだ野生動物に対する認識というか、体験からくる野生の生き物との距離感というものが分かっていなかった。どんどんと近づいてくる鹿に戸惑いと恐怖を抱き、こちらにこないように声を出して脅かしてみる。それでもまた近寄ってくる気配なので、海岸に落ちている石を投げて、さらに脅かしてみた。
(次回Vo.4に続く)