③ 国際化・情報化社会に必要なもの


①②で述べてきましたように、国際化・情報化社会に対応するために、日本では共通理解のための手段を懸命になって学んでいることにります。
しかし、共通理解のための手段としての英語を中心とした言語の習得や情報情報機器操作・インターネット活用の習熟だけが国際化・情報化社会に対応していくために大切になってくるかというとそれは疑問です。
確かに英語は、主語や目的語が正確に入らないと言いたいことを伝えることができないという性質があり、自分の考えを相手に正確に伝えるには適している言語であると言えます。しかし、必ずしも英語を母語とする人の全てが話し合いやコミュニケーションの能力に長けているわけではなく、英語を学習すれば納得のできるまで話し合えるような能力が身についてくるというものではありません。
パソコンやインターネットを利用できるということも情報化社会においては
欠くことのできないことであります。しかし、パソコンの操作ができインターネットが利用できるからといって、文化や習慣の違いを超えて情報が的確に理解できるものではないし、自分の伝えたいことが正確に伝わるものでもありません。
英語もコンピュータ・インターネットも、自分の考えや感情という情報の送受信の手段にすぎません。自分の考えや感情を運ぶ道具のようなものであると言えるでしょう。英語の習熟やパソコン操作やインターネット利用の技能の習熟にのみに指導が偏ると、自分の考えや感情を置き去りにしてしまった「うわべの英会話人間」や「器用なパソコン人間」を育てることに目的があるようになってしまうのではでないしょうか。
国際化・情報化社会へ主体的に対応していくためには、まずは自分の考えや感情をできるだけ正確に言葉(日本語=母語)で表現できるというより根本的な能力の育成について考えていくて必要があるのです。
①で、「日本は国際化社会の中で対等に共通理解を図りながら生活していくを図りながら生活していくという歴史的な背景を持たない」と述べました。しかし、それ以前に日本は自国の中で日本語と言う共通言語を用いてさえも、お互いが考えや感情を正確に言葉で表現し対等に話をしながら共通理解を図って生活して来たわけでもないという事実に目を向けなければなりません。
日本は、共通理解を図る上において寄りかかることのできる共通の文化や背景があったために、すべて言語を用いて表現する必要性がなかったのです。そして、「察し」とか「以心伝心」とか言われる言語を用いない共通理解の方法が上品であり美徳とさえ言われるようになってきたのです。
ここを忘れてしまっての対応策は、まさに砂上の楼閣と言えるでしょう。
英語という言語の習得やパソコンやインターネットの操作能力の育成を目指
す前に、まずは、今までの閉ざされた日本社会の中で忘れられてしまった「自分の考えや感情をできるだけ正確に言葉で表現できるような能力」を育成していくことが重要になってくるのです。
この能力が育成されていなければ、いくら英語に習熟してもお互いが納得するような話し合いはできないし、パソコンを通して正確な情報の送受信はできできないのです。また、この能力さえ身についているならば、英語以外の互いに理解できる言語を用いたりる、今後もっと素晴らしい情報機器が登場してもそれを活用したりしてそれぞれの考えを交換し合うことができるのです。

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