⑥ 論証の構造

論証とは「前提と呼ばれる命題の集合から、ある命題を結論として導き出す操作のこと」(坂原茂『日常言語の推論』による)と定義されています。前提は結論の理由・根拠・保証あるいは援護という役目を担い、前提と結論は論理的に結びついていることになります。
そしてその構造は以下のようになります。 
      
 データ(AはBである)
  ↓  ←  理由づけ(BはCである)
 主 張(AはCである)     (香西秀信『論争と「詭弁」』による)

上図で言えば、定義で言う結論とは「主張」のことであり、定義で言う前提とは「データ」と「理由づけ」の二つのこととなります。
歴史的に見て世界中でもっとも古くから知られている論証は、「アリストテレスは人間だからいつか死ぬだろう」というものです。これを構造的に示すと以下のようになります。言葉では表現されていない「人間は必ず死ぬものである」という「理由づけ」を基にして論証されていることになります(なぜ「理由づけ」が省略されるのかということは後の記事で述べていきます)。

 アリストテレスは人間である(データ)
  ↓  ←  人間は必ず死ぬものである(理由づけ)
 故にアリストテレスは必ず死ぬだろう(主張)
 
この論証の「データ」「理由づけ」「主張」を構成する要素は「アリストテレス=A」「人間=B」「死ぬもの=C」です。「死ぬもの=C」と「人間=B」は全体と部分の関係(含む含まれるの関係)であり、「人間=B」と「アリストテレス=A」も全体と部分の関係(含む含まれるの関係)になっています。そうなれば、当然なこととして「死ぬもの=C」と「アリストテレス=A」は全体と部分の関係(含む含まれるの関係)になってきます。
論証とは、このように要素間の当たり前の関係性について述べているだけのものと言えるのです。「人間は必ず死ぬ」というような疑いないような(真と言える)「理由づけ」が位置付けされていれば、「主張」は必ず真と言えるものが導き出されるという性質を持つものなのです(演繹的な関係性とも言えます)。
私たちが何らかの認識にいたるというときには、つねに論証がからんでいると言えるのです。日常生活の中で、よく知っていることをもとにしてよくわからないことやこれから起こることを筋道立てて何とか正しく予測しようとしていることも論証と言えます。人の話を聞いて意味を理解するのも論証であるし、初対面の人と出会ってどんな人なのかを見てとるのも論証であるのです。
例えば「夕焼けを見て、『明日は晴れそうだ』」と予測することがあります。これは、「空が夕焼けである」という「データ」と「夕焼けの場合は次の日晴れることが多い」という「理由づけ」(省略して示しています)を基にして「明日は晴れそうだ」と予測(「主張」にあたる)していることになるのです。
このように、論証とは生きていくための基本的な知的活動であり、それなくしては生存さえも危ぶまれるものなのであるとも言えるでしょう。国際化・情報化社会に対応するためには、「自分の考えや感情をできるだけ正確に言葉で表現できるような能力」を身につけていく必要があり、そのためには自分の中で「考えや感情」がどうして生じたのかという原因・根拠を把握し、筋道立てて「考えや感情」の正当性を合理的に説明すること、厳密には論理的に証明することができなければならないと述べてきました。
ここに示した論証とは、まさにこの証明の手段そのものであると言えます。つまり、国際化・情報化社会に対応していくには、自分の中で論証ができる能力が育まれているということが最も基盤となるのものであると言うことができるのです。
 

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