高等学校の国語の授業 論説文編⑤ 『水の東西』の論証の妥当性

生徒たちは、『水の東西』の論証構造は以下のようになると分析できたことになります。
            <A>
     データ:鹿威しは水を「せき止め」「刻む」
      ↓ ← 理由づけ:「せき止め」「刻む」ことは流れを強調する
データ:(主 張)鹿威しは流れるものを感じさせる
  ↓            
  ↓             <C>
  ↓         データ:日本人は行雲流水的な感性を持つ
  ↓          ↓ ← 理由づけ:行雲流水的な感性とは流れる
  ↓          ↓        ものを受け入れる心
  ↓ ← 理由づけ:(主 張)日本人は流れるものを積極的に受け入れる
  ↓            ↑   <B>
  ↓         対 比:西洋の噴水との比較
  ↓            (流れるVS噴き上げる・時間VS空間)
  ↓
 主 張:鹿威しは日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けである
            (表示上、Bの推論のベクトルを逆にしました)

高等学校ではこれから先の指導が中核となります。つまり論証の妥当性の検討です。具体的には、論証の基本となる「演繹的な推論」の蓋然性を高めるために位置づけられた推論についてひとつひとつその妥当性を考えさせていくことになります。
まずは「データ」の蓋然性を高めるために位置付けられたAの「演繹的な推論です。教材においては「理由づけ」が省略されています。マガジン『論理的思考・表現の在り方(構造編)』でも述べましたように、「理由づけ」が省略できるのは誰もが知るような常識的なことに限ります。「『せき止め』『刻む』ことは流れを強調する」ことは常識的なことであり省略が許されるものなのでしょうか。仮に常識的なものでないとすれば「どうしてそのようなことが言えるのか」という根拠も併せて示さねばならないことになります。ここを検討させていくことが大切になります。
次に「理由づけ」の蓋然性を高めるために位置付けられたCの「演繹的な推論」についてです。これは、「理由づけ」については明示されていてその根拠も訳注に示されているのですが、「データ」である「日本人は行雲流水的な感性を持つ」という表現が唐突すぎて蓋然的なものであると言えるでしょう。ここでは「どうしてそのようなことが言えるのか」という根拠を示さねばならないことになります。ここを検討させていくことが大切になります。
もうひとつの「理由づけ」の蓋然性を高めるために位置付けられたBの「演繹的ではない推論」の「対比」については、2ページ分の文章と1ページの写真を使って具体的に論じられていますので十分に妥当性があるものと言えるでしょう。(今までの『水の東西』の指導では、この妥当な推論について「生徒にあれこれ調べさせたり」「教師が写真等で解説したり」するものが多かったように思います。それは教材内容について理解を深めさせる、つまり「教科書を」教えることに過ぎないものとなります。これでは国語の授業ではありません)

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