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『北極に届く程度の想い』

当noteは、2016年10月8日にサークル「キンシチョウコ」より頒布されましたオリジナル小説『北極に届く程度の想い』のweb掲載版です。


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(本文11,005文字)


 前足の先を海水に浸してみる。
 思った通りだ。冷たい。冷たくて堪らないので思わず引っ込めた。
 足を浸けている氷や、肌に触れる外気のほうが温度は低い筈だ。知識としてそれは頭に入っている。なのに、触れている水を冷たく感じる。液体に対する先入観だろうか。飛び込むのがとても怖い。
 辺りを見回す。吐いた白い息が凍って景色を不明瞭なものにする。吐ききった息を静かに止めれば、濃い灰の雲と氷の陸地の境界線が見えてくる。雲の重なる下、空の果てが一番明るく白に近い。耳に届く音は無に等しく、一見すれば生き物の気配はないが、よくよく目を凝らせば遠くの流氷に海豹が寝そべっているであろう、黒っぽい点が見える。
 美味しそうだ。
 あの肉体に歯をたてる瞬間はさぞかし気持ちいいだろう。
 あれを食べたい。
 しかし、泳がないとあそこには辿り着けないのではないだろうか。
 水に入らなければ、ならない。
 態とらしく首を横に振って、水面に鼻を近付けてみる。微かに薄荷のにおいがする。
 時間稼ぎをしても意味がない。それどころか、海豹は氷に乗ってどんどん流れて遠くに行ってしまうだろうし、先程から氷の岡に隠れてこちらを窺う雌のシロクマは、くすくすと笑っている気がする。きっと僕に意気地がないから、嘲笑っているのだ。
 僕は黒い鼻から大きく息を吸い込むと目をぎゅっと瞑って四肢に力を込め、体ごと傾けて海に飛び込んだ。
 多分間抜けな音がして大きく波飛沫がたっただろう。が、僕が聞いたのは耳を滑っていく空気の小さな玉のぼこぼこという音だけだった。予想はついていたが、陸にいるよりも寧ろ暖かい。
 恐る恐る目を開いてみると、水の青が視界に飛び込んでくる。見下ろせば前足の先には、藍の空がどこまでも深く広がっている。僕の四本の足は動かなかった。このまま、深海へと沈んでいくのだろう。

 目を開くと同時に全身汗びっしょりであることに気が付く。僕は唸り声をあげながら身を起こした。喉がからからに渇いていて声が掠れている。
 いつものアパートの一室だ。僕の部屋だ。しかし見慣れた風景ではない。
 昨日までに、生きるために絶対必要なもの以外は捨ててしまった。つまり、この部屋にあった大方のものを、だ。残した家電は小さい冷蔵庫くらいのもので、埃の払いきれていないフローリングと合わさると、何もない空間よりも多分に寂しさを醸し出している。
 ベッドも捨てた。敷布団も、一時の迷いで捨ててしまった。だから床に横になって、身体に白い毛布を巻いて寝たのだ。この環境の変化に体は敏感に反応した。体を捻れば、背中や腰が軋んでめきめきと音をたてる。
 僕は不快から逃れるために水道の水を飲もうと思って毛布を振り払った、つもりだった。
 毛布は体から離れてはくれず、ぴったりと僕にまとわりついている。いや、これは、こんなに肌の一部のような顔をしてくっついているものは断じて毛布などではない。僕は白い毛で覆われた自らの腕を翳して見た。どういうことだろう、これではまるで体毛として生えているかのようではないか。
 腕だけではない。脚も、胴体も真っ白だ。僕は寝ている間にイエティか何かになってしまったのだろうか。
 どうしたらいいのか分からず、思わず手で顔を覆った。黒い肉球が頬に当たった感触が生々しく伝わってきて、ぶにゅ、とでも音をたてそうだ。
 生々しく?
 僕はある予感に襲われて鏡を探した。いや、駄目だ。姿見は昨日までに捨ててしまったし、僕は元々手鏡など持つ主義ではない。窓硝子に自分の姿を映してみるのはどうだろう。と思いたって立ち上がったが、曇り空が見えるばかりで自分や部屋は見えなかった。
 いや、待て。洗面所に頭の先から腰辺りまで確認出来る大きな鏡があるではないか。毎朝のように髭を剃る場所だ。何故すぐに思いつかなかったのだろう。自分ではそんなつもりはなかったが、僕は余程気が動転しているらしい。
 覗き込んだ鏡の前に立っていたのは、ホッキョクグマの着ぐるみを着た男だった。予想した通り顔だけは昨日と同じ疲れた表情の僕で、他全ての部位がシロクマだ。まるで、幼い頃見たカステラのCMで踊っていた人形のような。
 連想した途端にオッフェンバックの天国と地獄が頭の中で流れ始めた。
 しかし僕が扮しているのはホッキョクグマ、でいいのだろうか。南極に熊がいるという話も聞いたことがないし、白い熊は必然的に皆ホッキョクグマだと思ってしまう節がある。友人あたりならばもしかすると、正確に答えてくれるかもしれないが。
 僕は本日会う約束をしている、同じ建物内に居を構える学友の顔を思い出した。待ち合わせ、というか友人が僕の部屋に来る時間までは多分まだあった筈だ。いや、時計も捨ててしまったので正確な時間は分からないのだが、日が暮れていないのだからまだ大丈夫だ。
 いやいや、この格好では外に出ることも叶わないではないか。ハロウィンが近いため、もしかすると予行練習をしていると思われて職務質問は免れるかもしれないが、その前に羞恥心が勝って部屋から出ることが出来ない。
 いや、これは屹度着ぐるみだ。先程覚醒した時点では汗をかいていた感覚があるから、僕は熊になった訳ではない。人間のままである筈だ。このホッキョクグマ部分は服のようなもので着脱可能なのだ。多分。
 僕はチャックを探して奮闘した。何とかして背中を鏡に映して見ようとするが、これが中々上手くいかない。顔以外は白い毛で覆われているので視界はいつもより狭く、体も動きづらくなっている気がする。
 結局数分間にわたってどたばたと足音をたてながらその場で回るだけになってしまったし、何の戦果も得られなかった。傍から見れば滑稽な光景だろう。僕の動きで誰かを笑わせることが出来ればまだ良かったかもしれないが、今、この部屋には僕だけしか住んでいない。
 ここの住人は減ってしまった。
 誰も笑わせられないどころか、これだけ音を立てていれば下の階の住人から苦情すら受けそうだ。このアパートは古びていて壁は薄く、プライバシーという概念がないのだ。
 玄関の呼び鈴が鳴ったら居留守を使おう、と心に決めたところで、びーとブザーがなった。他でもない、玄関の呼び鈴だ。
 反射的に息が止まる。しかし、このような苦情を言いに来た住人以外にも、都合の悪い相手が来訪した場合気配を消そうとして息まで潜めてしまうのは何故だろう。無駄のような気もするが。
 「おうい」
 僕の危惧は外れた。薄い扉越しに聞こえてきたのは本日会う約束をしていた友人の声だ。
 約束の時間まではまだあった筈だが。
 不可解に思いながら思わず扉を押し開けたのと同時に、自分が特異な格好をしていることを思い出した。
 「…どうした、今日は十八時に来るんじゃなかったのか」
 「えっ!?何その着ぐるみ。突っ込み待ち?それとも触れないほうが良い?」
 敢えて平然と対応することにより事態の沈静化を図ったがそう上手くいくものではない。この友人の場合は特に。
 「立ち話では済まないことが色々あったんだ。とりあえず入ってくれ」
 「ちょっと待って。出来れば雑巾か何かを借りたいんだけど…ないよな。殆ど捨てちゃった?」
 彼はちらちらと殺風景な部屋に目を走らせている。
 「うん」
 「そんなに急がなくても…手伝うって言ったのに」
 元々僕の部屋の物を始末するために友人に助けを求めたのだったが、昨日までで大方作業は済んだのだ。
 「でも困ったな。これ、泥を落としたいんだけど」
 彼はそこまで言って履いているブーツを示した。彼が着用しているのを今まで見たことのないデザインだ。薄緑、どちらかといえば翡翠に近い色のブーツで膝近くまである長い種類のものだ。細身で脚の形に合っているため、彼の細身が強調されている。
 「変なブーツだな。お前の暗い色の服に合ってない」
 敢えて遠慮なく言った。いつもの友人ならば不服そうに眉根を寄せて独自に考え出したファッション性を滔々と語り始めるが、今日は困ったように笑うだけだった。
 「変なのはそこじゃないんだよ、これ」

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