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『金糸蝶子の60分とちょっと』

当noteは、2021年4月1日にサークル「キンシチョウコ」より頒布されましたオリジナル小説本『金糸蝶子の60分とちょっと』のweb掲載版です。

キンシチョウコというサイトで発表した作品から選抜した十篇に、表題を含めた書き下ろしを二篇加えた一冊です。 性別をあまり気にしない恋愛ものを主軸に、日常ではちょっとあり得ないことが起こったり、ちょっとホラーが入っていたり。 これを読めばサークル「キンシチョウコ」が分かる(はず)。

書き下ろし部分以外は無料でお読みいただけます。


紙版はBOOTHにてお取り扱いしております。こちらもよろしくお願いします。


(本文20,905字)




一「隠れ鬼の運命」


 ああ、小学生の頃にやったっけ、そんなの。あったよね色々。ただの鬼ごっこじゃなくて、氷鬼とか、色鬼?とか。で、何だっけ、隠れ鬼?鬼が隠れるんだっけ。逆に。
「逆に、じゃないよ」
 ああ、隠れんぼして、見つかった後に鬼から逃げるやつ、か。何でそんなこと、この年齢になってやらなきゃいけないの。面倒だなあ。大体、私とあなたの二人なんでしょ。成り立つの?それ。
「成り立つよ」
 私の視線は会話をしている相手から、チラシを配る女性へと移った。多分、充血して赤くなっている相手の目を平静な気持ちで見ていられなくなったのだ。そういうことにしておきたい。
 駅前の広場は高いビルに囲まれているので風が強い。ベンチに座って何十分経っただろう。電話で呼び出されて家から飛び出してきたが、今は厚手のコートを着てこなかったことを後悔している。
 空は高く、雲はなく、晴れ渡っているというのに。休日の昼間から、特別何をする訳でもなくベンチに腰掛けたまま喋っている二人。
 私たちは通行人の目には、恋人同士にでも映っているのだろうか。
 今日会ってから多分二人とも一度も笑っていないから、別れ話をしているとでも思われているかもしれない。
 で、何で隠れ鬼なの。
「だって、似てるから」
 似ている?何が。
「相手が自分から隠れてることを知ってて、それでも捜さなきゃいけなくて、見つけたら見つけたで、逃げられるじゃない。どれだけ嫌われれば済むのよっていう」
 私は何も言わずに立ち上がって相手の胸倉を掴んで、思い切り背中を反らしてから相手に頭を打ち当てた。こんなとき大抵の女性なら平手打ちをするのだろうけど、私の掌はあまり大きいほうではない。上手く相手の頬に当てられるかどうか自信がなかったのだ。
 手を離せば、相手は唸り声を上げて蹲った。そのまま再び啜り泣きを始めたので、また頭突きをしてやろうかとも思ったけど、あまり行動が過ぎると、先程からちらちらとこちらを見ているチラシ配りの女性に通報されてしまうかもしれない。警察のお世話になってしまうのは喜ばしくない。
 仕方ないので私はしゃがみこんで、相手の耳許に口を近付けた。
 じゃあ私が鬼ね。あなたが逃げ切れたら、付き合ってあげる。その女みたいな口調も直さなくていいよ。
 本当は男らしい人が好きなのだけれど。
 あまりに驚いたのだろう、私を見上げる相手は口を開けたまま呆けた顔をしていたが、暫くしてから我に返ったように私のズボンを掴んだ。
「待って、逃げ切れたらって、いつまで?私が貴女から完全に逃げ切ったら、一緒になれないんじゃない」
 ちっ、気付いたか。
 舌打ちをしてそっぽを向く私に、また涙目になる相手。
 本当は相手の情けない顔が見たくて、こういう不毛なやりとりを何度も何度も繰り返してきたのだ。
 やっぱり、私が逃げ続けるしかないかな。



二「ソーダ水は犬も喰わない」


 目が痛いと泣いている彼に良かれと思ってソーダ水をかけた時から、私は彼のことが好きになっていたのかもしれない。

「ちょっとまだ準備出来てないってどういうこと!?出発は明日の始発だって言ったじゃない、あっ、もう明日じゃなくて今日だ…」
 彼は掛け時計を見上げて青ざめながらそう言った。
 既に日付が変わってから三十分以上経っている。
 私にとっては殆どどうでもいいことだったので、座り込んだままぼんやりと、開いたままの旅行鞄を眺めていた。それがまた彼の逆鱗に触れたらしい。加減を忘れてしまっているのだろうという、かなりの強い力で腕を引かれた。仕方なく立ち上がれば、初めて自室が惨状と言っても差し支えないくらいに散らかっていることに気付かされる。
 道理で旅行の準備が進まない訳だ。
「まあまあ、落ち着いて、ソーダでも飲みなよ」
 小学校入学時に買ってもらったまま、惰性で存在している学習机に置いていた透明のグラスを差し出した。なみなみと注いであるそれは、思えば全く口をつけていないので注意を払っていなければ中身が溢れ出てしまいそうだが、彼はそんなことに頓着せず、乱暴にグラスを受け取った。ソーダ水は一滴もグラスから零れなかった。
 変なところで器用なのだ、この男は。
「何これ、気が抜けてるじゃないの」
「何を失礼な、こう見えても考え事に忙しくて、そんな準備を疎かにしていたつもりでは」
「違う、あんたじゃなくて、このソーダ。いつ注いだの」
「…さあ」
「さあって…」
 確か考え事を始める前だった筈だ。
「日の暮れるちょっと前かな」
 彼は私の言葉を聞くと、半分だけ飲んだソーダ水を机に置いてがっくりと項垂れた。怒ったり悲しんだり、見ていて飽きない人だ。
「出掛ける気がないなら初めからそう言ってよ…楽しみにしてたこっちが馬鹿みたいじゃない」
「そんな、やる気がなかった訳じゃないんだけど、だって…温泉とか言われてもぴんと来なかったし」
「ただの温泉じゃなくて、炭酸。血液の循環が良くなって冷え性とか、治るんだよ。あんたいつも手足冷たいから。温泉に浸かったら、少しは良くなるかなって」
 そう言って彼は無遠慮に私の手を掴んで、徐ろに揉み始めた。昔ならばすぐさま振り払って蹴りを入れる場面になるが、今ではそんな気力も起こらない。
「そんなのいいよ、いつも何だかんだであつくなるし。この前の肌寒い夜だって、最後には」
 手を振り払ったのは彼のほうだった。顔をにわかに赤くして、焼餅のように頬を膨らませている。
 いや、そういうのは女がやるのがあざとくて可愛いんだって、普通逆だろ。
 私は思ったことは言わずに、床に散らかっている物を鞄に放り入れる。出掛けるつもりがない訳ではないのだ。着替え、化粧道具、充電器、順に鞄の中に堆積させていく。いつの間にか部屋の隅に追いやられていたポーチを鞄まで投げれば、不意に彼が邪魔をするようにポーチをキャッチャーよろしく取り上げた。
「まだこのポーチ使ってるんだ」
「だって初めて買ってくれた物だし、悪い?…って、ちょっと!」
 彼が許可を取ろうともせずにポーチを開けたので、私は声を荒げてしまう。
「雑誌の付録だったし…こんなもの、いつまで取っておくの。また新しいの買うから」
 そう言いながら臆することなく中身を検分し始める彼は、手に当たったものを不意に取り出して暫く眺めてから、部屋の電灯に透かして見た。
 彼の手の中で余計に小さく見える、目薬だ。水面が電灯を通して、彼の顔にきらきらと紋様を作っている。
 私は取り返すことを忘れて彼に歩み寄り、一緒にその容器を見上げた。
「…炭酸なら、目にも良いいかもね」
 私の言葉に、思わず彼は吹き出す。多分他の人が聞いていたらなんのことだと訝るのだろうと予想しながら、私も少しだけ笑ってしまう。
「って、笑い事じゃないよ。私が頑なに目を閉じていなかったら、ソーダを浴びた目は今頃どうなっていたことか。よくやった、五歳の私」
「でもその後、直ぐに大人に目薬を貰えたから良かったじゃん」
「それからはあんたが専属の目薬係みたいになったんだよね。いつソーダをぶっかけられるか、暫くは気が気じゃなかった、本当に怖かったんだから」
 彼の顔は、とても恐怖体験を思い起こしているようなものではなかった。その表情を見ていると、私の体温は自然と上がってしまう。
 果たして冷え性に効く炭酸の温泉など必要なのだろうか。
 そう思いながらも、それからの準備は不思議と捗った。



三「灯台躑躅」


 灯台が故障したようだとの連絡を受けてツナギ姿の修理屋二人がその岬に向かったのは、明るい昼下がりのことだった。
「…履き違えてるよなあ」
 修理屋の先輩は、コンクリートの白い灯台を見上げる距離まで近づいたところで足を止めてぼそりと呟いた。
「えっ、何か言いましたか、先輩」
 修理屋の後輩は丁度耳を掻いていたので相手の言ったことが聞き取れなかったらしく、能天気な声を上げて問うたが、先輩は取り合わずに灯台へと歩みを進めていく。後輩はまだ耳の痒みが気にかかるらしく、今度は工具などの入った大きな鞄を置いて、軍手を脱いで一本指を耳の内部に触れさせた。
「何か、詰まってる気がするんだよなあ。今日は波の音も先輩の声も聞こえない」
「お前が俺の話を聞いていないのはいつものことだろ。ほら、とっとと片付けるぞ」
「あっ、待ってくださいよお」
 白い扉に鍵を差し込んで、先輩は出入り口の扉を開けた。ぎぎぎぎという大仰な音に続いて、彼は迷いのない一定の足取りで灯台の中へと進んでいく。後輩も見失うまいと、荷物を抱えて灯台に走り込んだ。
「うわっ、何だこれ」
 後輩が声をあげたのは足元を見たせいだ。本来ならば日の光が届かず、真っ暗闇になっている筈の床が、一面濃い桃色で埋め尽くされている。しかし暗がりに目が慣れていないために、暫くは沈んだ紫色に二人の目には映っていたのだが。
「躑躅の花だ」
「躑躅」
 成程、よくよく見てみれば花弁だった。
 後輩は花を拾い上げてまじまじと観察した。
「お前見てなかったのか、本来光源になるはずの上の部屋、まっピンクだっただろうが」
「まじですか、全然気がつきませんでした」
「耳の次は目までお陀仏かよ…まあいい、上の部屋、行くぞ」
 先輩は灯台の中に溢れかえった花という状況には無頓着に、目の先にあった階段を上っていく。後輩も遅れまじと続いたが、灯台の壁に沿った螺旋階段を埋め尽くすように花は落ちていて、踏みつけて滑ってしまいそうになる。後輩の足取りは自然と慎重なものになった。
 大体、重い荷物を持たされているのに、と後輩は愚痴っぽく思う。
 何故先輩はいたいけな後輩を放ってずんずん先へ進んでしまうのだろう、と。
 二人が上っている間にも濃い桃色をした花弁は、どこからかはらはらと降り注いでくる。一度だけ後輩の肩に当たったが、それは彼が予想していたよりも重厚感があって痛みを覚える程だった。
「先輩、何なん、ですかね、この、花たちは。誰かの、悪戯?」
 進むごとに段々と息を切らしながら、後輩が声をあげた。
「さあな。上に行けば分かるだろうよ。それにしても、履き違えてるよな」
「何のこと、ですか」
 ツナギのポケットに手を突っ込んだまま、息を乱さず先輩は進んでいく。
 後輩の体感で一時間程、正確に言えば三分で、灯台の最上部への扉が見えてきた。管理人から預かっていた鍵を取り出した先輩の予想に反して、鉄の扉は半開きになっていた。
 中から絶えず吹いてくる風に乗って躑躅が舞い、光に包まれた視界を余計に不明瞭なものにしている。
「灯台躑躅はそれそのもので植物の名前でな、灯台に似ていることから名前が来てるんだ。躑躅の花じゃないぞ」
 先輩は部屋の中に向かって、殆ど叫ぶように声をあげた。
「なんですって」
 遅れて到着した後輩が、息も絶え絶えに蹲りながら聞いた。
「お前に言ってるんじゃない。というかお前、若いんだからもうちょっと鍛えろよ。今階段のぼっただけだぞ」
「いや、年齢は先輩とそこまで変わんないじゃないですか…うわっ、何だここ」
 息を整えながら漸く部屋を目にした後輩は驚いてひっくり返った。空間には、灯台の入口に積もった花とは比べ物にならない量の躑躅が落ちている。床一面覆い尽くされているので躑躅畑かと見紛う程だった。
「お前、あまりここに居ないほうがいいかもな、耳がおかしいの、多分花粉だろうから」
「花粉…?そう言えば、風邪かと思ってたけど、鼻もさっきからおかしいんです」
「これだけ花に囲まれていりゃあな」

 結局、後輩は灯台の外で口をぽかんと開けながら、頂上部の先輩の仕事を仰ぎ見ていた。先輩は夜までには明かりが辺りに放たれるようにと、躑躅の花を上の部屋から空へと放している。あれ程多量にあった筈の濃い桃色が散り散りに、海に落ちていった。
 修理屋では二人で行動していたが、思えばいつも仕事をするのは先輩で、最終的には後輩は体育座りで眺めているばかりだった。何が起こったのかも分からず後から話を聞くこともしばしばだ。
「今日のあれは何だったんですか」
「無学な灯台の幽霊」
 しかし、先輩のそっけない語りを聞いてもよく分からないのもまたいつものことで、後輩は今日も落ち運ぶだけの重い荷物を抱えて、先輩の後について事務所に帰るのだった。



四「私はそれが欲しい」


「私はそれが欲しい」
 貴女が人差し指でさして、僕は買われていきました。五月上旬のことでした。
 後から小耳に挟んだところによれば貴女がそんなに明瞭な言葉を発したのは初めてであったようで、ご主人もたいそう喜んで僕を買うに至ったようです。
 僕は自由に動くことが出来ないので、いつも貴女に抱えられ運ばれました。家の中は勿論、近所の公園からデパートの屋上遊園地まで。抱えられ転げ回りまた拾われ、外気を吸い肺は汚れました。一度左の足がもげてしまったこともあります。本当は痛くて泣きたかったのですが、僕の口許はしっかりと縫い付けられていて叫び声をあげることも出来ませんでした。大変につらく、僕がこんな姿になってしまっては貴女も悲しんで、いつものように涙をこぼすかと思いましたが、貴女は僕を拾い上げるとじっと僕を見ましたね。
 あの時の無表情、左足も持ち上げて仔細に観察する目付きは、忘れようとしても忘れられません。
 僕は一瞬だけ、怖かったくらいです。
 もっとも、その後貴女は迅速に動いて、奥様に助けを求めました。奥様は僕の足を縫い付けて、まるで生まれたての僕を彷彿とさせるほど丁寧に僕の体を綺麗にしてくださいました。足を接合するという麻酔を使わない大手術に疲れ果てていた僕の心は、僕の四肢同様に綺麗に洗われたのです。現金なものですっかり上機嫌になってしまった僕ですが、それでも、貴女の僕を見るいつもと違う視線は、体のどこかにこびりついて離れない気がしたものでした。
 それでも、いや、だからこそ、僕は貴女のことが好きになってしまったのでした。
 貴女の決して年相応ではなかった、冷めた目付き、いつも一緒に肌を触れ合わせていることにより伝わってくる体温。これでくらりと来ない筈がありません。
 僕が数年のうちに捨てられるであろうという予想は、常識として持ち合わせていました。その昔、百年生きた物には魂が宿るとされましたが、そんな強靭な肉体を僕は持ち合わせてはいません。貴女の小さい手を離れて袋詰めにされ、運ばれた先でこの身を微塵に引き裂かれるかと思うと身震いがして、夜毎悲しくて堪りませんでした。それでも貴女のように泣くということは出来ないのです。そんな不安な夜はひたすらに、今のうちだと、貴女の肌になるべく触れようとしました。
 けれど、その後永く貴女の部屋に居続けたことを思うとその頃に捨てられて四肢をもがれていたほうが、実は幸せだったのかもしれません。
 奥様の手入れが良かったのか、僕はその後も貴女のそばにいました。といっても、貴女に連れて出掛けることは減り、貴女の部屋の一番奥にある棚に座っている時間が長くなりました。
 ともすれば頭に埃が積もったり、小さな蜘蛛が僕の体を這って、こそばゆかったり変な気持ちになったりしましたが、それでも僕は満足していました。貴女の全身を視界に入れる時間が増えたからです。それに、貴女はたまに僕を手に取ってくれました。その時の僕の舞い上がる気持ちと言ったらありません。少し、おかしいでしょうか。以前は毎日毎晩共にいたのに、こんなに触れる時間が減ったのに、それでも僕は嬉しくて仕方がないのです。
 いっそ貴女に飛びつきたい。それでも僕はじっと黙って、貴女の目を見つめるばかりでした。
 ああ、だから。
 まさか僕もこれほど長生きするとは思わなかったのです。齢百歳までは程遠いものの、貴女のすくすくと育つさまをここまで見られたのは、人によっては幸せなことではないか、と思うかもしれません。
 貴女は外に出ていることが多くなりました。赤い鞄を背負い、毎日のようにどこかへ出かけます。長い長いその期間が終われば、貴女は紺色の服を着るようになりました。その美しいさまといったらありません。朝日を受けてどこかへ飛び立ってしまいそうな可憐な姿。僕は棚の上で埃を被ったまま、それでもまだ真っ黒に澄んでいる目で貴女の横切る足取りを追ったものです。
 なのに。
 目の前に広がっている光景は何なのでしょう。
 いえ、僕はそれを本当は知っています。
 昔、貴女と常にいた頃、一度だけ直接見たことがあります。貴女は眠れないと言って、月もない夜にご主人と奥様の部屋に僕を引きずっていったのでした。
 僕は貴女のことが好きです。
 けれども紺色の服を脱がされた貴女に覆いかぶさっている男に、僕はなりたかったのでしょうか。
 いえ、決してそんな嫌なことは、僕の身が自由自在に動いたとしても絶対にしなかったでしょう。僕はこんなことはしません。
 ならば、なぜこんなに悲しいのでしょうか。
 胸が、張り裂けそうなのでしょうか。
 こんな痛みは知りません。左足がもげたときも、小さな貴女と離れ離れになる妄想をして悲しんだときも、この痛さはなかったように思います。
 しかもこの痛みは、例えば貴女が痛い思いをしているのではないかと哀れんで生まれたようなものではないと分かってしまっています。
 もっと、自分本意なものなのです。
 たちが悪い。
 ああ、痛い、痛くて堪らない。
 倒れてしまいたい。それでも僕は、動くことが出来ません。
 男が貴女に抱きつきました。天井を見据えていた貴女は、ふと無表情になりました。そうして、首を捻って僕に視線を寄越しました。
 貴女はあの目付きをしています。じっと観察するような。



五「ドッペルゲンガーとの密会」


「この曲、『運命』って呼んでいるのは日本だけらしいですよ、先生」
 彼女はそう言うと僕の耳許でふふ、と笑い声をたてた。吐く息が耳にかかった。
 視界は相変わらず不明瞭だ。タオル地の何かできつく縛られているので目は塞がれていて、瞼を押し上げることすら構わない。そのせいで僕の視界は瞼の肉の橙ばかりが広がっていて、まるで夕焼けに一人放り出されたかのように、不安定だ。紅い空の中をふわふわと漂っている錯覚に陥りつつあるが、実際僕の体は椅子に縛り付けられている。
 先刻から耳に入ってくるのは、小学生でも知っているようなクラシックの曲、しかもオーディオの大音量だ。何のために彼女がそんな曲をかけているのか分からない。果たしてここは防音の部屋なのだろうか。いや、防音の部屋でなければ今頃誰かが不審に思ってこの現場を覗き込むくらいのことはしているだろう。しかし、彼女のゆったりとした足取り、彼女の余裕を持った囁き声が、誰にも邪魔されていない環境であるということを証明している。
「交響曲第五番と言えば、大体は通じるのだそうです」
 彼女の上靴の音は、曲にかき消されて聞こえない。しかし、椅子に縛られた僕の周りをじわじわと焦らしながら、追い詰めるように歩いている気配を察することは出来る。翻るプリーツのスカートが僕の膝に当たっている。彼女の長い黒髪が肩に触れる。微かに甘い香りが、僕の嗅覚を刺激している。
 まるで失った視覚を補おうとしているかのように、様々な体の部位が敏感になっている気がする。
 そう思った僕の何もかもを読んだように、彼女の舌が僕の耳を這った。
「ふふっ」
 仰け反って逃れようとする僕を見て彼女が笑う。
 唾液の音が水っぽくて嫌だ。
 妙な気持ちになりそうで、嫌だ。
「き、君は何故こんなことをするのだ」
 僕の声は震えていたと思う。
「あら、先生のほうからの話ではありませんでしたか」
 彼女は音楽よりも鮮明に声が聞こえるよう、僕の耳許でまた囁いた。
「確かに指示を出したのは私だ。しかし君に頼んだのは準備室の掃除であって、私を拘束することではない。さては、私を犯罪者に仕立て上げるつもりか」
「あら、それも良い案ですね」
「君…!」
 彼女は続くはずだった叱責を妨げるように、僕の首に腕を回した。
 絞められる、と思ったのも束の間、柔らかい感触と確かな重みが膝の上に乗る。
 跨られた。向き合って僕の膝の上に座る彼女の息を吸う気配まで感じ取ることが出来る。
「先生は何故、私がこんなことをするのか、思い当たる節はありますか」
「それは」
 思い当たる節ならば、幾らでもある。
 彼女はいつも恨みのこもった目で、僕を見つめていた。直接言葉を交わす訳でなかった授業中も昼休みも、すれ違う機会だけあれば彼女の負の感情を受け取るのには十分で、僕は密かに神経をすり減らしていた。その理由が分かっていたからこそ。
「それでは何かい、君は私に消えろというのかい」
「…あら、察しが良いですね。他人である筈なのに、ここまで同じ顔をしているなんて不気味で、不吉で、先生がこの学校に来た日から私の生活は真っ暗の闇でした。何でも自分そっくりの顔に出会うと、長く生きられないと言うではないですか」
「私も初めて君を見たときは吃驚したよ。この地域には親族も見知った顔も一切なかったから。赤の他人なのに」
 性別すら違うのに、ここまで顔のつくりが似通っているなんて。
「でもあるときから、そんな瑣末なことはどうでもよくなったんです」
「…え?」
 彼女はそこまで言うと、僕の目の周りを縛っていたタオルを解いた。途端に血が頭を駆け巡ってくらくらとする。倒れ込みたいのに、目の前に自分と同じ顔があって、まだ体は拘束されていて身動きが取れない。
 予想に反して辺りは暗かった。日が暮れて、とうに下校時間は過ぎているのだろう。僕たち二人の他に人の居ない音楽室は、中庭の池が夜行灯に反射して青い水紋を映している。壁から天井まで水面のようにゆらゆらと揺れていて、まるで水の中にいるようだ。
「私は元々、然程自分の顔が嫌いではないんです。友だちがいなくなるのは嫌だから、普段は言わないけれど。だから、先生を見つめているうちに」
 彼女の顔が近づいて来る。僕は背筋が寒くなって、彼女から逃れようともがいた。結果椅子が傾いて、僕は椅子ごと仰向けに倒れこむ。僕に抱きついた彼女諸共、だ。
「…僕は自分の顔が嫌いなんだ」
 背中が痛んで、僕は涙声になっていた。
「だから、君の顔も嫌いだ…でも君の体は好きなんだよ」
「え?」
 彼女は顔を上げて、僕を覗き込んだ。初めて意外そうな顔をしていた。
「君みたいな体に生まれてきたら良かったのにと、何度思ってきたことか。そうしたら均整が取れたのに。か弱そうだと苛められることもなかっただろう」
「では先生と私は相思相愛ですね。そういう運命だと、この顔が印している訳です」
「僕の話、聞いてた?」
 何をどう捉えたらその答えを導き出せるのだろう。
 天井の青を眺めたままの僕は海の底にいる心地になって、貝のように口を閉ざすしかなかった。彼女の唇が僕に触れようとしている。
 話の結末に接吻をして起こそうとするのは、海底にいる乙姫ではなく王子ではなかっただろうか。



六「最後の晩餐はフローリングで」


「一口だけ頂戴」
 あの子の口癖はと聞かれればこう答えるしかなく、彼は眉根を寄せるのだった。
「だって、強請るなんてあまり品がないじゃないか」
 彼は拗ねたように言う。しかしそれが上品下品を基準とした感情ではないことは、言った本人も、聞いた相手も分かっている。
 あの子はもう彼の前には現れないからだ。
 だから、彼は不機嫌になっているのだ。
 あの子が居なくなったのはつい一昨日のことだった。
 彼が夜更けに仕事から帰ると、今朝まで生活感に溢れていた2DKのアパートは自棄にだだっ広く広がっていた。家具がなかった。その上物件サイトや不動産屋で見る写真のように、小綺麗だった。
 果たしてフローリングはこんな色であっただろうかと、彼は驚くよりもまずそんなことを思った。
 それから帰る部屋を間違えただろうかと慌てた。
 いや、そんな筈はない。数十年前ならともかく、アパートの部屋は一つ一つ違う鍵が当てられている。
 部屋を歩き回る自分の足音が彼の耳についた。段々荒くなっていく息遣いが、漸く彼を慌てさせた。
 唯一あった物体、床の隅に追いやられていた彼の縒れた下着を目にした時、恋人に逃げられたのだと、あまりにも陳腐で、あまりにも悲しい失恋の事実に思い至ったのだった。

「立つ鳥あとを濁さず、か」
 彼の話を聞いていた相手は少しだけ面白がっている風だった。あの子と入れ替わるように上がりこんできた相手は、何もない部屋で、彼とあの子が嘗て生活を重ねた場所で缶ビールを煽っている。冷蔵庫もないので、近所のコンビニから買ってきたばかりのものを開けていた。部屋の主である彼は咎めこそしなかったが、部屋の隅に踞って恨めしげに相手を見ている。
「いくら電話をかけても、メールをしても繋がらない。音信不通だ。でも…本当は知ってたんだ。あの子が…」
 うう、と、彼は言い終わらないうちから嗚咽を漏らした。
「いいじゃないか」
 ビールで頬を染めた相手は、今度は笑みを漏らした。
「あの子が無事に避難出来たんなら、さ。家具も売ってお金に出来たんだろうし」
「そりゃあ、そうだが」
 彼は鼻を啜ってから言葉を継いだ。
「でも、俺たちは真剣に仕事してるっていうのに…地球だって救われるかもしれないのに」
「賢明な奴は避難するだろうさ。誰もこんな、いつ大気がなくなるか分からない星には居ないだろ」
「千年ぶり、だったか」
「ああ、空が落ちてくる。お前の顔も見納めだ」
「お前は失敗すると思っているのか、俺たちのプロジェクトが」
「ああ思うね、賭けてもいい。だから飲み納めしてんだ」
 信じられないという具合に目を見開いた彼の黒い瞳を切り裂くように、一筋の彗星が降り注いだ。
 屹度彼は最期の瞬間もあの子を想うのだろうと想像して、相手はビール缶を潰した。



七「キンモクセイ」


 目を覚ました場所が井戸の底であると気が付くのには数秒かかった。見上げると、真っ暗の真ん中に穴が空いていて星が瞬いているのが見える。月明かりでもあれば幾らか辺りの状況も分かるだろうが、角度が悪いのか、はたまた今夜が新月なのか、光源となるものがなく甚だ心許ない。
 僕は起き上がって、確かに土が掌に触れるのを感じた。そうだ。この井戸は枯れているのだ。僕はその事実を知っていて、そして落ちた。
 何故無事なのだろう。僕はその場に立ち上がって腰を捻ったり伸びをしてみたりしたが、特に怪我をしたような痕跡も見受けられない。
 と、言うことは。
 この上の地上に次にいつ人が来るか僕は知らない。
 つまり。
 ここで飢えるまで座って空を見上げながら待てということだろうか。そう神様が言っているのだろうか。
 無神論であるにも関わらずそんなことを思って、僕は乾いた土の上に座り込んだ。
 井戸は、昔から怖かった。
 年端も行かない頃に読んだ小説が原因だった。当時、少年少女や探偵が大活躍して犯罪に立ち向かう小説を好んで読んでいた僕は、同じ作家が書いているという理由でその短編にも手を出した。正直なところ細部には理解出来ない言い回しも多く、頭を捻りながら読み進めていたが、最後の場面になると僕は震え上がった。
 読んでいる場面が目の前で再生されるような感覚を覚えた。僕は実際にその場面を音で聞いた。
 男が落ちるのだ、井戸に。
 妻に全てを許すと告げて。
 身を投げるのだ。
 僕の耳をひゅんと風が切る。僕の足元で、地面と人がぶつかる音がする。
 その夜幼い僕は眠ることが出来なかった。
 ごお、と音がして僕は回想を止めた。外では強い風が吹いているらしい。井戸の底にまで、微かに金木犀の香りがしてくる。幾ばくも経たないうちに、ぱらぱらと何か細かな粒が井戸の中にも降り注いできていることに気が付いた。何となく差し出した掌にも乗ったので、暗いながらも仔細に観察してみれば、どうやらそれは金木犀の花弁であるらしい。形というよりは匂いを頼りに答えを導き出したが。
 はて。
 近くに金木犀の木など生えていただろうか。
 いや、井戸に落ちるまではそんなことには気付かなかったのかもしれない。
 それとも。
 金木犀も桜と同じように一斉に花を咲かせ、短期間で見頃を終える印象があるから、気絶していた間に変化していたのかもしれない。
 大体前後不覚になっていたのは何れ程の時間だったのだろう。日が暮れているので半日程度かと思ったが、もしかすると数日経っているのか。
 それにしても、この体の丈夫さは何なのだろう。僕は生まれつき貧弱なほうであった筈なのだが。数米飛び降りても怪我一つなく、長い間眠りこけていたがさして空腹も感じない。
 まさか、自分が気付いていないだけで本当は。と思ってあたりを見回したが、冷たくなった僕の肉体などはどこにも見当たらず、この両手が、両足が胴体が頭が、紛れもなく僕の所有物だと分かる。心臓も均一に脈を刻んでいるし、確かに呼吸もしている。
 では何故。
 僕が不可解に思っていると、くすくすと笑う女の声がした。いや、女などと他人行儀な言い方をしてはいけない、知っている声だったが、ここにはいる筈のない声だ。
 ふと目を向けると、そう遠くない位置に人影が見えた。多分僕と向かい合わせになるように、井戸の側面に背をつけて正座で座っているのだろう。僕のことを真っ直ぐ見据えているのが、暗闇なのに何故か分かった。
 ああ、なんということだろう。あの小説では妻を残して夫が井戸に落ちるのに、僕はやはり彼女に会うために井戸に落ちたのだ。
 彼女は橙色の着物を着ている。初めて見た柄だ。まるで金木犀のような。
「限りがあるとは言え、折角まだ猶予がありますのに…何でいらっしゃろうとしたのですか。本当に無駄な、何の得にもならないことをなさいますね。小さい頃からちっとも変わらない」
 ここまで彼女が言って、僕は彼女が本当の彼女であると確信した。
 僕は彼女の名前を呼ぶ。
「…会いたかったよ」
 彼女はふいとそっぽを向いた。
「私は途中で投げ出して来るような腑抜けとは会いたくはありませんでした」
「会いたくないも何も、こうやって来てくれたじゃあないか」
「だって仕方ないじゃありませんか。やっと目を覚ましたら貴方が間抜けなことをしようとしていらっしゃるんだもの。誰だって喝を入れたくなるでしょう」
「君がいなくなってから、僕に喝を入れる人なんか居なかったよ。誰も彼も僕を気遣ってくれた。そんな親切心からか強く励まされたりもして…その人なりには僕を奮起してくれていたのだろうけど…僕はもう駄目だったんだ」
「そんなこと聞きたくないわ。ねえそんなことより、貴方この上に生えている金木犀を家に移してくださらない?私やはりあの庭のほうが落ち着くの」
「ああ、君の言うことなら何でも聞くよ。でもそのためには、ここから出なくてはならない」
 不思議だ。僕はこの井戸の底で終わらせることしか考えていなかったのに、彼女の言葉を貰うだけでそんな意識があったことすら失念してしまいそうになる。
「それくらいはご自分でなさって。私貴方が落ちたとき下敷きになったことが精神の上で苦痛で仕方なくって、もう力が出ないわ」
「ごめんね、ごめんね」
 僕は謝りながらも、彼女を失ってから初めて、明日のことを考え始めていた。
 さて、まずはどうここから脱出するかだ。



八「そんな尼の幽霊を見るらしい」


 目を覚ましたのが宿坊であると気付くまでに暫くの時間を要した。
 普段の癖で携帯の画面に現在時刻を求めようとして布団から手を伸ばしたが、今は電源を落として鞄の奥深くに仕舞っている。仕方がないので、遣るところのなくなった腕は額に乗せて、目を閉じ静かに溜め息を吐く。
 真夜中、である筈だ。と言っても、寝入った時刻が日の入りからさして経っていなかったため、常ならばまだ起きて事務作業をしている時間かもしれない。
 宿坊で一晩を過ごす旅行をしようと申し込んでみたが、こうやって中途半端に目が覚めてしまうあたり順調ではないという気がする。
 寝返りを打って目を開く。
 障子越しに白い月明かりが輝っていてやけに眩しい。はて、今宵は満月であっただろうか。
 誘われるようにして半身を起こすと衣擦れの音が耳に響いた。それ以外は無音で、何か禁忌を犯しているような錯覚に陥る。
 慎重に、慎重に。まるで誰かからそっと逃れるように。布団から這いずりでて障子に歩み寄る。足踏みの音は何故か耳には届かなかった。
 障子を開けて見た空には雲一つなく、空の真ん中には満月が浮かんでいる。それがあまりに明るくて、周りの星は一切視認することが出来ない。
 眩しい。月とはこんなにも網膜を刺激するものであっただろうか。ただ太陽の光を受けているだけなのに、まるでそれ自体が発光しているかのようだ。
 美しい。
 と、口に出して言ってしまっていたらしい。
 月から遥か離れた地上の、宿坊に面した庭で動いた影があった。どうやら僕の発した言葉に反応したようだ。
「おや」
 向き直った人影が、僕の口を開けたままの間抜けな顔を認めたらしい。同時に、こちらも相手の姿を目にすることが出来た。
 艶やかな赤の着物姿だ。振り袖だ。日のもとに晒したら大層映えるだろう。芥子色の帯には細かな文様が見える。一見すればどこぞのお嬢様のような出で立ちなのに、僕は直ぐに別の箇所に目を引き寄せられていた。
 剃髪されている。
 若い顔立ちであるのに髪の毛がない。ここが寺であるので当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、僧侶にしては着ているものが異質だ。
 化粧を施していないためかあどけない顔をしているように見える。睫毛が長く輪郭は女性らしく丸みを帯びている。そして何より、頭の形が喩えようもなく美しい。均整が取れている。
 まじまじと観察しているにも関わらず、彼女は暫く感情の読めない目でこちらを見ていた。しかしじきに、何かを思いついたとでも言いたげなきっぱりとした態度で歩み寄ってきた。
「どうか誰にも言わないでください。嫁入り前にお寺に入ったけれど、この振り袖だけはどうしても手放せなくでこっそり持ち込んだの。こうやって誰の目もない夜だけに着て、昔を懐かしめるようにと」
 そう言った声はたおやかに僕の耳を撫でた。彼女そのもののような声だった。

 つくづく不思議な夢だ。
 出家した筈の尼がこっそり私物の振り袖を持ち込んで、夜な夜な着用していた。目撃してしまった僕の口止めをするために、彼女は。
 そこまで思い出したところで慌てて首を振って記憶を振り払う。ここは寺だ。この回想は、あまりにもこの場にはそぐわない。
 今朝は日の昇らないうちから読経を聞いた後、この地域に纏わる説話を聞く算段になっていた。
 部屋を移動した僕は、史料の巻物を見て息を飲むことになる。
 詠み人知らずの悲恋の歌のあしらわれたそこには、一人の尼の姿が描かれている。赤い振り袖を纏って、共に逃げる約束をした男をいつまでも待つ彼女は、未だにここにいるのだと妙に確信した。



九「溺れる港」


 決死の覚悟で港から海に飛び込んで、塩辛い水を飲みながらも愛を叫んだ男がいたという逸話からその名前がついたらしい。清水の舞台から飛び降りるとか、そういった覚悟を持って、体に溢れる情熱を持て余しすぎて実行してしまったというのだが、しかし、その男。
「でも、結局溺れてる訳?『溺れる港』ってことは」
「うーん、その辺はよく分からないんだよね」
 港が名所らしいから、と、言い訳をしながら私をここに連れてきた張本人は、しかしはっきりしない物言いだった。
「告白が無事成功して、港で待っていた女性と結ばれたとか、一旦は振られたんだけど、ショックのあまり溺れてしまったところを助けられて、その女性の人工呼吸で息を吹き返したとか…あとは」
「あとは?」
「…まあ、悪い結末にはなっていない筈だよ。こうやって観光地として宣伝までしている訳だし」
 歯切れの悪い言い方をして、縁に立てられた看板を指で示した。焦げ茶のペンキが剥げかけた木製のものだ。私の目線より少し下に白い文字が並んでいる。
 溺…る港。
 いやいやいや。
「これ、何も知らなかったらただただ物騒な字面だな。本当にそんな、縁結びにでも使われそうな逸話が残ってるの」
「残ってる残ってる」
 私は鼻から息を吐いて、あまり信用していないという意を示してみた。
 そもそも私たち以外に観光客など見当たらないのだ。漁船が疎らに停泊していて、遠めに呆やりと見える市場のそばでは、漁師らしき人影が作業をしているのが分かる。他に動くものといえば、獲物を狙っているらしい鴎や猫の通りかかる姿くらいで、これもよく目を凝らさないと分からない距離にある。
 二人きり、なのだ。
 そういえば、相手は今朝から様子がおかしかった。天気も下り坂だと、旅館の部屋のテレビが言っていたことだし、そもそも週明けに備えて早めに帰るつもりだったし、来た通りの順路を使えば良いと思っていた。しかし、どうしても寄りたい名所があると言って、この人は車の運転をかってでたのだ。普段滅多に提案などしないのに。温泉に行きたいと言ったのも、この地域の旅館を予約したのも私のほうだ。まさかそんな腹案があったとは、知る由もなかった。
 風が強くなってきた。灰色の空を仰げば、暗い雲が思いもよらない速さで流れている。
「嵐でも来るんじゃない?気が済んだら、もう引き上げようよ」
 私は風で立ったコートの襟を直しながら言った。
「ちょっと…待って。い、今飛び込むから」
「えっ、飛び」
 言葉の意味を理解する前に、海に向かって駆け出していた。
「待って」
 私は慌てて追いすがって、その腕を掴む。前につんのめったところを、綱引きでもするかのように引き込んだ。そのまま足を引っ掛けて倒す。
「痛い!」
 アスファルトの地面に背をぶつけて声をあげているが、自業自得だ。
 それにしても、良かった。私の足が早くて。
 俄かに体を動かしたせいで乱れた息を整えながらそう思った。
「何で今自殺しようとした」
 私が仁王立ちになって問い詰めると、相手は呆然とした。
「え…いや、話の流れで分かってよ。ここで海に飛び込んで君に告白すれば大成功間違いなしだろ」
「いや、普通に溺れるでしょ!波もたってきてるし危険だから。そもそも」
 今更告白も何もないだろう。二人で温泉旅行に来る間柄で。
 とは、余りに馬鹿馬鹿しすぎて言葉が継げなくなる。
 代わりに黙って手を差し出して抱き起こして、人工呼吸をしてあげることにした。

「…何だよ、そんな口をぱくぱくさせて。溺れてるみたい」



十「水仙の鏡」


 お見合い結婚でしたので、あの人の本来持ち合わせている性根といいましょうか、性格を与り知ることはなかったのですけれども、本当はとても善良な方であったとの声は方々から聞きました。他人の気持ちを推し量ることの出来る方で、そして掛ける言葉は百合の花弁を指先で撫でるときのように柔らかく、そのため沢山の方から慕われておりました。
 あの方が皆様の噂通りの姿で私と生活を共にしておりましたのは最初の数週間だけのことでしたので、私の不甲斐ない記憶力ではもう、その後の陰惨な日々ばかりが蘇ってくるばかりで御座います。
 切っ掛けは六月十八日のことでした。日記にもそう残してあります。
 私の我が儘で、あの方に姿見のおねだりをしたのが始まりです。
 そうです、全ては私の所為なのです。
 嫁入り道具に小さな、それこそ身の丈に合った鏡台は持ち込んでいたのですが、新しく設えた着物をどうしても眺めたくなったのです。全身を映すとなれば、それまでは縁側の硝子障子の前に立って朧げな影を捉えるか、写真館にでも行って写していただくか位しか選択肢は御座いません。そう言うと、あの方は優しく微笑んで直ぐに手配をしてくださいました。
 数日も経たずに家に届いたのは、水仙の彫り物が周りの木枠に施された、風変わりな姿見でした。
 こんな装飾、見たことがない。
 あの方は興味深そうに枠を指でなぞって、それから一点の曇りもない鏡を覗き込んでおりました。私はその後ろ姿を微笑ましく眺めたものでした。あの方が二人に増えたら、こんなに素敵なことはないですもの。この世が持つ至宝が二倍に増えるのですから。そして両手に花、もとい、両腕であの方と腕を組めれば、幸福感でどうにかなってしまいそう。
 そんな愚にもつかない空想をしていると、鏡の中のあの方が一瞬だけちらりとこちらをご覧になりました。鏡のこちら側にいるあの方は上辺の水仙に目を取られているのに、鏡の中の視線は真っ直ぐに私を捉えておりました。いつも私に向けられるような柔和な笑みではなく、ひとかけの笑いもない、感情をなくした顔でした。
 私は何が起こったのか未だ理解していなかったのですけれども、反射的に半歩下がっておりました。それから今見たものが確かに不気味なものであったとようやく認識して、ずっと黙り込んでいるあの方の名前を呼びかけました。
「おちて、おちて、おちて、おちて」
 それは私への言葉では御座いませんでした。けれど、最後にこちらに向けられた言葉であったように今では思われます。
 その言葉は鏡の中から響いて、そしてあの方に反響しているようにも聞こえました。
 それからあの方は命を落とすまで、一度たりとも鏡の中のご自身から目を離すことは御座いませんでした。私の力でも、町の男たちの力でも引き剥がすことは出来ず、あの方は狂ったように鏡に、いえ、鏡の中のあの方の姿に見蕩れてしまっておりました。私がどれだけ泣いても、食事を摂ることもなく、排泄時も鏡の前から離れることなく。鏡の中のあの方を口説いては、放心したように眺め、そして鏡に口付け、鏡の中のあの方に舌を這わせております。あの方は鏡の中のあの方に恋をしているのです。
 全ては私の責任なので御座います。私が我が儘を言ったり、身に余る妄想をしてしまったせいなのです。せめてもの罪滅ぼしに、私はずっと傍に居ることを誓いました。
 奥の間にあの方は未だ居ります。興味がおありならご覧になってください。もう百年もずっと同じ体勢で、鏡を覗き込んでおりますので。


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