上手に遊んでいたよね、とは
人生で何度かブログに挑戦してきた僕ですが、続かない続かない。
noteもなんとなく続けばいいかな、くらいに考えていたけど、続かない続かない。
何かを書く、表現する、つまりアウトプットするには、何か心を動かされることがないとダメなんです。
インプットというか、心を動かされる何かが。そしてそれは良い心の動きであれば嬉しいけど、そうでなく負の心の動きの時もあるのが現実。
というか、むしろそっちの方が多いかもしれません。
今回もそれです。
先日、園外保育がありました。園外保育っていうと仰々しいけど、要は近くの公園に弁当持参の散歩です。
当園は、あまり園外に出る文化のない園なので、歩いて10分の公園に行く散歩ですら「外出届」なる文書を園長に提出する義務があります。
そして、その園外保育から帰ってくると園外保育に関わった職員で、園外保育の反省会を行なうのですが
「シートはもっと大きいほうが良かった」
「雨の後だから着替えは多めの方が良かった」
と、そんなの反省に残す必要があるの?という内容の振り返りをしていて、なんだかなぁと思っていたら
「でもさ、暑かったけど上手に遊べていたよね」
「うんうん、上手に遊んでた~」
という言葉が急に保育者の口から語られました。
ちょっと待って、「上手に遊ぶ」ってなんだろう。
遊ぶことに上手いも下手もあるもんか、とイラっと来てしまう僕。
それを嬉しそうに話しているのが経験年数10年越えの保育者2人だったことにもさらにイラッ。
なんでそういう発言が出てくるのか。
彼女たちの中で、遊ぶのが上手い子とそうでない子がいなければ出てこない発言でしょう。
これは、考えるまでもなく分かる。
・先生を困らせずに遊べる子が”上手に遊べる”子
・先生を困らせ、手を煩わせる子が”遊ぶのが下手”な子
きっとこういう線引きなんだろう。
友達とけんかする子→遊ぶの下手
道から外れずにまっすぐに歩ける子→遊ぶの上手
片付けの時間を守らず虫取りに熱中する子→遊ぶの下手
池には近寄らず、先生のそばで遊んでいる子→遊ぶの上手
こんな具合なんだろうか。
遊ぶのが上手、下手と保育者がその子のことを評価しているようだけど、これ、完全に大人の都合であり、大人が決めた枠に子どもをはめ込んでいることに他ならない。
その枠の内側にいる子は良い子であり、遊ぶのも上手。
枠からはみ出す子は悪い子で、遊ぶのも下手。
どうして、そう小さい視野で子どもを見てしまうのかな。
子どもの世界に付き合おうとせず、管理して、支配して、何事もなく済まそうとするのかな。
もしかしたら、保育者にはそんなつもりは全くないのかもしれません。
いや、たぶん、きっとそう。
何も考えずに出てきた「上手に遊べてたよね」という言葉なんだろう。
でも、だからこそ怖いと僕は思う。
無意識に子どもを枠にはめようとしているということだから。
没個性、画一化、不自由、みんな一緒、制限、枠にはめる、窮屈
僕の嫌いな言葉たちが頭に浮かびます。
でもイライラとしたところで現状は変わりません。
しかもその時すぐにその保育者たちに「それって」と言えばよかったかな、と今さらモヤモヤしてくる始末。
ただ、園の保育改革を始めたばかりの段階としては、これまで十数年積み上げてきた保育の価値観を急に変えろという方が難しい話だということも、十分理解しているつもりではあります。
昨日参加したオンラインの勉強会でも出ていた話だけれど、地道に保育者との対話を繰り返していくしかないのかもしれません。
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