本を買うこと

恩師の一人が昔書いたブログを読み漁っていたら、内田樹が気になってしまった。

以前から内田さんのお名前は存じ上げていたが、何か難しいことを語ったり書いたりする人というイメージを持っているだけだった。(失礼極まりないですね)


恩師がそのブログ内でお勧めしている書籍数冊とは別に
『コロナ後の世界』という昨年10月に出版された本を現在読んでいる。



コロナによって世界はがらりと変わってしまった感覚がある。
マスクは必需品になり、どこの建物に入るにも消毒液を手に塗りたくらなければならなくなった。
人と会うことに遠慮するようになり、次第に気を遣うことに疲れ、誰かと会おうとすることすら億劫になってきている。

コロナ禍以前とは全く違う世の中である。

ただ、体感としてこういうことは感じていても、教育の世界に身を置いている以上、もう少しちゃんと世の中の変化を読み取る必要があるのではないかと考えていたちょうどその頃、Amazonで内田樹で検索を掛けたときにこの本に出会った。


自分よりもたくさんの本を読み、多くを学び、豊かに語ることができる人物が、コロナを経験した世界がどう変わっていくのかをどのように捉えているのだろうか。

それが気になってすぐに本を購入した。



政治や経済、そして歴史に触れながらコロナ後の世界を読み取ろうとする前半部分はそれなりに読み進めるのが難しく、とても頭を使った。
章を読み終えるごとにいったん本を置き、内田さんが言わんとしていることをなんとか噛み砕いて飲み込もうとするが、なかなか難しい。

読むのに疲れる本は苦手なのだが、それでもなんとか食らいついていった。


ところが後半あたりからとても読みやすい章が出てくる。今日の本題はそこ。


難読文章の苦行を乗り越えた先のご褒美のように感じられたせいか、ぐいぐい内容が入ってきて、思わず「オモシレ~」と呟きながら読んでいた。



章のタイトルは『自戒の仕掛け』
この章では、内田さんが自身の持つ膨大な書籍とその収納について触れているのだが、まず驚くのはその本の量。

家を建てるときに書斎の三面の壁に天井までの書棚を作ってもらった。(中略)大学を退職するときに、研究室にあった一般書籍はおおかた「ご自由にお持ちください」と廊下に出して持って行ってもらった。家に持ち帰った段ボール50箱分の専門書も半分くらいは東京の図書館に寄贈した
内田樹『コロナ後の世界』文藝春秋、2021、p230


この描写だけで膨大な数の本が目に浮かぶが、内田さんは『それでも、本は大量に残った』と述べている。
きっと内田さんはこう評されるのは好まないと思うが、読書家とは内田さんのような人のことを言うのだろう。


ところが読み進めていくとさらに驚くことが書かれていた。

ときどき来訪者が書棚を見上げて「いったい何冊あるんですか?」と訊く。私にもわからない。1万5千冊くらいだろうか。もっとかも知れない。「これ、全部読んだんですか?」と訊かれる。まさか。書棚の本の8~9割は読んでいない。そう言うと驚かれる。
同上、p231


読んでないんかい!

思わずツッコんでしまった。
仮に1万5千冊の本があるとして、その8割は1万2千冊。
9割なら1万3千5百冊。

その数の本が読まれないまま書棚に置かれているという事実。
そして神戸女学院大学名誉教授という肩書を冠する内田樹という人物をして、そうであるという事実。

そこに驚いてしまった。

しかも、内田さんは自分の年齢を考えるとこの中には死ぬまで読まない本もあると断言している。


何故なのだろうか。
もしかして、読んだふりをして本を飾っておくことで「どうだ、すごいだろう」と見栄を張る道具として使っているのか・・・?

と大変失礼なことを考えながら読み進めると、ちゃんと内田さんの言葉で

もちろん知的装飾という働きもある。書斎に通した客人に「こういう本を読んでいる人間だと思われたい」と思って書物を並べているということはある。
同上、p231

と語られている。
内田さんでもこういうことを考えるのか、と嬉しくなった。
僕自身も同じように本をファッションやインテリアのように、自身の知的装飾(この言葉が気に入った)として使った経験がある。

仏教の教えを現代の社会を通じて捉えた人の書いた文章を読んで「仏教ってクールじゃね?」と考え、そっち系の本をブックカバーを掛けずに電車で得意げに読んでいたことがあるのだ。恥ずかしい。ちなみにその本の内容は全く覚えていない。


でも、
内田さんレベルの人間でも、僕のような人間と本質的に同じようなことをしているのだということが、僕に安心感を与えてくれた。



さて、本筋へ戻ろう。
内田さんは「なぜ人は読んでいない本、読むことのない本を書棚に並べるのか」という問いに対して、こう仮説を立てている。

それは

それなりの社会的成功を遂げて、広い書斎や客間のある家に住めるようになった人間には「自分が読んでいない本に囲まれて晩年を過ごす義務」が課されていたのである。
同上、p232

つまり、一見無駄に見える「読まない本を書棚に並べる行為」はある種の義務として暗黙の取り決めのうちに昔から決まっていたのではないか、というのだ。

内田さん曰く、「読んでない本・読むことのない本」はその人にとって「可視化されたおのれの無知」であるという。

人生をそこそこ生きてきて、その間に人生の何たるかをそれなりに経験し、社会的立場を獲得した人間は、新しいものを取り入れ、変化していくことをしなくなり、謙虚さが失われて、他人の言葉に耳を傾けなくなる。
内田さんはこれを「いやなやつ」と表現している。


この「いやなやつ」になること、これを抑制するための手立てが「読まない本を書棚に並べる行為」であると内田さんは述べている。

自分が「いやなやつ」になりかけたその時、ふと見上げると書棚にはまだ自分が読んでいない本の背表紙がずら~っと並んでいて、その背表紙はこう訴えてくる。

「お前はまだ私を読んでいない。私の持つ世界を知らない。この無知の恥知らずめ」と。


書棚に読まない本が並べられていることで、おのれの無知と経験の狭さを思い知らされること。いわば自戒の念を持つこと。

これがこの章のタイトル『自戒の仕掛け』に繋がってくる。




ここまで読んで、思わず手を叩いていた。
ありがとう、と。

世間では積ん読という言葉もあるように、購入した本を読まずに置いておくことはどちらかと言えば悪とされている。

僕自身も衝動買いしたまま、まだ開いてすらない本たちが、妻とさんざん口論した上で自宅に置かせてもらった書棚に眠っている。

彼らの前を通る時、なんとなく後ろめたい気持ちがあったのだが内田さんのこの自戒の仕掛けを読み、救われた気持ちになった。


「君たちはそこで眠っているだけでも意味があるのだよ」と。

彼らがそこに横たわっていることで、僕はいつでもおのれの無知を思い出すことができる。謙虚でいることができるのだ。


それでもちょっと申し訳ない気持ちは残るので

「でも、いつかちゃんと読むからね」とも心の中で囁くことは忘れずに生きていきたい。(読めよ)



4月から大学院へ進学を決めた自分に、内田さんの書いたこの文章を送って締めとしたい。


古代の哲人が教えるように、あらゆる学びは「無知の自覚」から始まる。そこからしか始まらない。自分がいかにものを知らないのかを知っている人だけが学びに向かう。自分が何を知っているのかのリストを長くすることが知的活動だと思っている人間はついに学びとは無縁である。
同上、p235


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