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森とサステナブル

飛騨市の「広葉樹コンシェルジュ」及川さんに案内してもらった森が良かった。
植林の必要がある針葉樹と異なり、広葉樹は植える必要がない。かわりに伐(き)る必要がある。

広葉樹は、数十歳の若いうちに伐ると、切り株の傍から新芽が育つ。これを萌芽更新(ぼうがこうしん)という。定期的に伐ることで、森は再生しつづける。
この写真で切り株の斜面に緑に見えるのは、芽吹いた広葉樹の新芽。千年以上続いている、人と森の関係性。

更新のための伐採をしているナラ林

逆に放置しても、広葉樹は長生きできない。
例えばナラという木は、100歳くらいになると虫がつきやすく、虫が入ると枯れる。巷で言う楢枯れだ。
枯れた木は次の木の肥料になり、徐々に原生林に帰る。森自体は存在し続けるだろうが、そこに人の姿は必要ない。
森と人の関係性が途切れて行っているのが現代社会だ。かわりに消費するのは、石油のような木よりももっと作られにくい資源。もし木を使えないなら、人はこの先、代わりに何を使ってサステナブルに暮らせるのだろうか?

『動的平衡』という本を読んだ。
生命は動的な平衡状態だという。
手足とかのパーツを寄せ集めるだけでは、生命は生まれない。生命は取り換え可能なパーツの集合体ではない。
『動的平衡』では、食べたものが細胞に吸収されて古いものが離脱するといったミクロなやりとりが持続する平衡状態を、生命の特徴だとしている。

ゆく河の流れは絶えずして、もとの流れにあらず
方丈記

川に水が流れ続けるけど、同じ水が流れているわけではない。
生命のなかで発生しているやりとりも、この川の流れと同じで、一つとして同じものではないが、継続している。

方丈記は、戦乱に翻弄される人の儚さを描いているという。
たしかに住む人にとってしんどい時代だったのだろう。
でも、京都の街では、いまも変わらぬ営みが続いている。
「先の戦で~」と言うと、応仁の乱を指すそうな。
時代をはるか超えて、人と人のコミュニケーションは健在だ。

一方で現代、会社や事業に対してもサステナブルとかSDGsとかもてはやされている。これに違和感を感じていた。
形ある会社とか事業を永らえる目的で、「サステナブル」の概念を導入するのは、かえって継続性を妨げるのではと思う。現場が疲弊する例も見た。
形あるものを永らえさせるのは、人体のパーツを更新して不老不死を目指すサイボーグ的な考えであり、無理がある。
幕府が変わっても変わらず営まれる京の生活のように、実は会社などの形にとらわれず、関係する人と人などのコミュニケーションこそが事業の本質なのではないか、そんなことを考えた。

萌芽更新する広葉樹も、人と自然の関係が無理なく続いている。
先月暮らした愛媛の限界集落では、人と人のコミュニケーション、人と自然の関わり方が無理なく続いていた。だから、江戸時代から建物の建つ場所が変わらないくらい、連綿と生活が続いてきた。

季節のおこぼれ

こうした継続するやりとりこそが、サステナブルの本質ではないか。そんなことを考えた。

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