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小説・映画 感想 正欲(朝井リョウさん)  繊細ヤクザ(軽度)の私が感じたこと

朝井リョウさんの正欲 原作と映画をみて

原作を11日(土)に読み、くらっている状態が続く中、15日(水)のレイトショーで映画を観ることができた。

原作と映画で異なる構成であり、それぞれの作品として楽しめると思う。受け取る感想も違うものになるかも。

原作ではマジョリティにもマイノリティにも属せない辛さを描いていると受け取った。

(性的指向、マジョリティがマイノリティに対して寛容を装う欺瞞、広告が発するメッセージの解釈、世界に対する姿勢・連帯の必要、正常と異常の線引き・特に小児性愛など、複雑に関係し合っていて、物語でしか描けないやり方で、違和感を突きつけてくる。)


映画では性欲•正欲の繋がり方の話だと受け取った。

性欲で繋がる象徴がナツキとヨシミチ、正欲で破綻してしまった象徴がテライと妻。

性欲といっても、水に対する性欲の一致という、世間的には認められづらい、いや、認知すらされていない「間違えた」もので繋がった関係は「いなくならないから」で幕を閉じた。

一方、正欲に支配されてしまっているテライは、学校に行けずYouTube配信に夢中になっている息子と妻を断罪し、「正しさ」を振りかざして「破綻」してしまった。この関係は離婚調停中であると告白され幕をとじた。

共感できるか否かで作品を評価することはしないようにしているけど、今回はテライと自分の状況がかなり近く、作品という鏡を通して、喉の奥が使えるような苦しさを感じた。

異質なもの、今回の物語においては、まったく共感できない性的指向に対して、「理解できないことがあるという事実」を思い知り続けることが必要なのだと思う。

また、自分もまったく共感できないシュウやショッピングモールの販売員のような、決め付けられたマジョリティの生き方に浸っている人を邪魔してもいけないと思った。正しい性を生きている。羨ましくもある。

ナツキが結婚しないことに対して、価値観をアップデートしようとすることで、なんとか自分を納得させようとしている母。
当事者にとっては残酷だけど、理解しようという回路は開かれていて、少し救いではある。
「はじめてのおつかい(的な番組)」をみたくない気持ちはわかってほしいと思うけど。

誰かにとっては普通のことで、何気なく発することに傷つく人がいることは忘れたくない。繊細ヤクザっていう言葉があるみたいだけど、心の中に飼っておくくらいでちょうどいいくらい、世界が辛い。肩で風切って歩く。繊細ヤクザを自覚しながら生きる。


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