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編集の芸当から引用の模倣へ ーコロッケ『ものまねグランプリ』卒業が示すもの

 一つの時代が終わる。「ご本人」から花束を受け取り涙ぐむ「ものまね帝王」を観ながら、そんな予感がした。

 長年ものまね界を牽引したコロッケが一線を退き、後続のプレーヤーたちを審査する側に回る。それは一見美しい「世代交代」なのだろう。しかしコロッケの「卒業」は、単に世代交代の一幕に収まるものではない。この出来事は、ものまねという芸が大きな転換点にいることを示している。

 結論から言えば、ものまねの趨勢は「編集の芸当」から「引用の模倣」へと移りつつある。その背景には、新しいメディアの普及による視聴者の変容がある。

1 コロッケが築いた「編集の芸当」

 『ものまねグランプリ』を卒業する場(注1)で、彼が最後のネタに選んだのは「ロボット五木ひろし」。これこそ、コロッケの職人芸が詰め込まれた傑作だ。 
 「ロボット五木ひろし」とは、その名の通り、演歌歌手・五木ひろしをロボットのような振る舞いで擬態するネタである。五木ひろしの「契り」を歌いながら、ロボットの動きを示す効果音に合わせてコロッケが動き回る。動きながら一曲歌うだけではない。スローモーション、早送り、巻き戻しなど、様々なアレンジを加える。さらに、途中で他の人(例えば志村けん)に顔と人格が変わってしまい、自らの指で顔を元に(五木ひろしに)戻す、という小ボケも挟む。コロッケの代名詞とも言えるネタである。

 コロッケのものまねの面白みは、「おふざけ」にある。彼の生み出す笑いは、その大部分を「顔芸」に負っている。ものまねではあるが、「ご本人」をそのまま模倣する気はない。少なくとも外見は本人に寄せていない。彼のものまねはある意味で「不真面目」だ。しかしその不真面目さこそが、視聴者の見慣れた「ご本人」の像とズレを生み、笑いが生まれる。
 五木ひろし「ご本人」は当然、「契り」を歌うときにロボットになりはしない。途中で志村けんに人格が変わることもない。目尻もあれほどには下がっていないだろう。しかし、そこで「ロボット」を掛け合わせることこそ、コロッケの職人芸なのだ。「ご本人」の特徴的な振る舞いをデフォルメし、「ご本人」がするはずのない別の要素を取り入れる。元の素材を誇張し、別の素材を掛け合わせる。これが「編集の芸当」である。

 コロッケが「ものまね帝王」として君臨していた時代は、「編集の芸当」こそがものまねネタの主流を占める時代でもあった。

2 消費される名人芸

 しかし、近年のものまね番組において、「編集の芸当」は主流から外れつつある。コロッケ「卒業」の花道となった『ものまねグランプリ』(注2)において、その現象を象徴する企画があった。

 企画の内容は、ベテランものまね芸人3人が、3分間で「モノボケ」を用いてできる限り多くのものまねネタをする、というものである。ネタの審査(似ていると思ったら○ボタンを押す)は関根勤が務めた。挑戦した芸人は、ホリ、松村邦洋、神奈月。ものまね界のひと世代を彩るレジェンド達だ。
 しかしこの3分間、レジェンド達が本領を発揮できているようには見えなかった。モノボケにものまねを掛け合わせるのは相当に高度な芸だ。さらに企画の趣旨からして、矢継ぎ早にネタを出す必要がある。竹馬に乗りながら「どうも、『竹馬鉄矢』です」と言うホリ。ビートたけしの仕草を繰り返す松村邦洋。サングラスとパーマのウィッグで「気持ち悪いですか?」(井上陽水)と言う神奈月。この形式ではどうしても、短尺の十八番ネタを次々と繰り出さざるを得ない。レジェンドたちの芸は量こそ多かったが、普段の質が伴っているとは言い難かった。

 ここに欠けているのは「間」だ。ホリの武田鉄矢も、松村邦洋のビートたけしも、神奈月の井上陽水も。彼らの名人芸は、「間」があってこそ光る。「ご本人」の外見、声色、身振り手振りなどあらゆる要素を、「細かすぎて伝わらない」ほどに徹底的に模写し、かつその動きを笑いへ昇華させるために独自のアレンジを加える。武田鉄矢のもったいつけた話し方も、ビートたけしの体の揺れも、「ご本人」を他者の身体で演じるためには必要な「間」なのだ。しかし、3分間で次々とモノボケをしながらネタを繰り出すという企画の前では、「間」をとっている暇がない。レジェンドたちのネタそのものは一級品だったが、ショーとしてはどこかぎこちない企画だった。この企画でネタの審査を務めた関根勤のコメントが、何より雄弁に物語る。

関根勤「本当はオチまでネタを見たかったんだけどさ。途中で(○ボタンを)押したよ」
『ものまねグランプリ』(注1)内における関根勤の発言

3 「タイパ」追求の果てに

 なぜレジェンドたちがここまで雑に扱われてしまうのか。ここでひとつの補助線を引きたい。稲田豊史が『動画を倍速で見る人たち』(注3)において指摘する、①動画視聴メディアの多様化と、②①に伴うコンテンツ消費者の変容である。

 まず①の状況はよく知られているだろう。近年、「YouTuber」「サブスク」といった言葉に代表される、様々な動画視聴メディアが普及した。動画共有サイトのYouTubeが主要メディアとして存在感を示すようになり、一流芸能人から一般人まで多くの人が情報発信のツールとして用いている。若年層には短尺の動画共有アプリ「TikTok」も人気である。また、NetflixやAmazon Prime Videoといった、国内外のアニメ・ドラマ・映画などを見放題の定期購読制サービスも多数登場している。
 昭和から平成にかけて大きな影響力を持った「テレビ」と比較したとき、先に挙げた諸々の動画試聴メディアの特徴は「どこでも・好きな速度で・いくらでも」にある。手持ちの端末(スマホ)で見られるため場所を選ばない(どこでも)。倍速やスロー再生など、再生速度も調整できる(好きな速度で)。検索して見られるものなら、自分が見ようと思う限りいくらでも見られる(いくらでも)。確かにテレビでも、録画して時間差で視聴することは可能であり、再生速度も多少は調整できる。しかしテレビには、機材がある場所に縛られる(×どこでも)、番組表に載っているものしか見られない(×いくらでも)。ここまでは、近年のメディアに親しむ人なら1ユーザーとして違和感なく享受している現状だろう。

 問題は②、すなわちコンテンツ消費者の変容である。新しいメディアを使いこなす消費者たちの特徴的なふるまいは、稲田の書籍名に示されている。彼/女らは、「動画を倍速で見る」のだ。稲田は「動画を倍速で見る人たち」を対象に量的・質的調査を行い、彼/女らがコンテンツを「倍速で見る」動機、その背景にある構造を考察している。
 ここで稲田が提示するのは「タイパ」という概念である。タイムパフォーマンス、つまりかけた時間に対しどれだけの効用が得られるか、という勘定である(注4)。「動画を倍速で見る人たち」は無駄を避けようとする。忙しい生活の中で時間をかけて動画を見るなら、かけた時間が無駄にならないような効用を得たい。ゆえに風景描写や回想シーン、物語の進行に関係しない箸休め的な回といったものは「無駄」として飛ばされる。過去のエピソードやシリーズの視聴を前提とするようなハイコンテクストな内容も、背景知識や作家の無意識を読み解こうとする批評も、難解なものとして回避される。コンテンツを制作する側も、「動画を倍速で見る」消費者に自分たちの商品を選んでもらえるよう、「タイパ」の良いものを作る。刺激的で、わかりやすく、飽きにくく、短い。これらの要素を満たすコンテンツこそ、「動画を倍速で見る人たち」が求めるものである。

 こうして、変容した視聴者に合わせる形で、提供されるコンテンツも変容する。当然ものまねのネタも、「タイパ」の良いものが求められるようになる。
 「編集の芸当」は「タイパ」が悪い。「タイパ」の良さを求める視聴者は、笑いを取るために加えられた要素(例えば、五木ひろしの歌まねに加えられた、ロボットの動き)を、余計なものとして排除する。ほんの数秒見ただけでも、「似てる! 本人みたい!」と驚き、周囲と「似てたよね!」と共感し合えるような、短尺の動画に収まるものまね。それこそが「引用の模倣」である。

4 「引用の模倣」の時代へ

 「引用」は、他者の言説を自分の議論に援用する手段である。他者の文章や発言を、そのまま抜き書きする。ここで留意するべきは、引用する元の言葉を一言一句違えてはいけない、ということだ。「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」でも、「国道のトンネルを抜けると雪国だった」でもいけない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」(注5)でなければならない。
 「引用の模倣」としてのものまねは、どこまでも真面目だ。まるで「ご本人」がそこにいるかのように、元ネタを極限まで正確に再現しようとする。そこに「おふざけ」は要らない。求められるのは、生真面目な引き写しの作業である(注6)。

 コロッケ「卒業」の舞台となった『ものまねグランプリ』では、ラストステージ(五木ロボット)の前に、コロッケと後輩ものまね芸人たちのステージがあった。そこにもまた、今回の「世代交代」の本質が表れていた。
 コロッケと後輩たちが横に並び、コロッケの持ちネタを共に披露する。福山雅治のまねを、山寺宏一と共に。平井堅のまねを、松浦航大と。
 そして共演した後輩たちの多くは、コロッケのものまねを引き立てる演出をしていた。後輩たちはコロッケの横で「真面目」に歌真似をしていた。そしてその横でコロッケは「おふざけ」をしていた。山寺宏一が福山雅治の歌真似をする横で、コロッケは「あんちゃ〜ん」と声まねをする。松浦航大が平井堅の歌真似をする横で、コロッケは平井の動き回る右手と大げさな息継ぎを擬態する。
 もちろん、これら後輩たちとコロッケの共演は、尊敬する「ものまね帝王」へ贈る花道だったのだろう。横で後輩たちが「真面目に」ご本人の真似をするからこそ、コロッケの「おふざけ」な編集の妙が光る。しかしその対比こそが、「編集の芸当」から「引用の模倣」の転回を、如実に示してしまう。
 現に、「真面目」な後輩の一人である松浦航大は、これからの意気込みをこう述べていた。

松浦航大「コロッケさんが築いてくださったものまねというものを、僕は歌まねという形で受け継ぎたいと思います」
『ものまねグランプリ』(注1)内のインタビュー動画における、松浦航大の発言


 老いたレジェンドが門出を迎え、若きプレーヤーが抱負を語る。ものまね「新時代」の幕が開いた。姿を変えた先に、ものまねという芸はどんな未来を歩むのか。その方向づけには、演者だけでなく、私たち観客も大いに関わることとなる。

(注)
(1)2022年10月25日、日本テレビにおいて放送。
(2)注1に同じ。
(3)稲田豊史『動画を倍速で見る人たち』(光文社新書、2022年)
(4)稲田は「タイパ」が重視される背景として、SNSの普及により若い世代の間に生じた「同調圧力」を指摘する。流行りのコンテンツについて多少は知っていないと、仲間内での会話についていけなくなる。ゆえに倍速視聴などをして、会話についていける程度には「つまみ食い」する、というのだ。「動画を倍速で見る」という行為には、メディア環境に規定された、若い世代なりの切実な世渡り術という側面もある。
(5)川端康成『雪国』の有名な書き出し。ここでは新潮文庫版(2006年)を参照した。
(6)ここで「真面目」なものまね(たとえば歌まね)を生業とするものまね(芸人の方々)を貶価する意図はない。歌まねひとつとっても、それは相当に高度な、プロの芸である。たとえばaikoやMr. Childrenのような独特の音階や声色を使いこなす歌い手、平井堅やAdoのような広い音域と振り幅の大きい声量を武器とする歌い手を「完コピ」するのは容易なことではない。この記事の主眼はあくまで、コロッケ「卒業」の舞台に見る、ものまねという芸の変化を考察することにある。

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