いつか疎遠になったとしても
学校という狭い箱庭の中にいると、「友達」はとても重要なもののように思える。そして、偶然できた「友達」を、学校から巣立った後も手放したくないと思う。「友達」とのつながりは、続くことが望ましく、疎遠になるのは悲しいことだ。私たちはつい、そう考えてしまう。
しかし、本当にそうだろうか。「友達」をもつことの幸せとは、一緒に過ごしている時間それ自体であり、続くか疎遠になるかは巡り合わせと縁の問題なのではないか。
ある物語を読みながら、そんなことを考えていた。
関係の相対性
高松美咲『スキップとローファー』(『月刊アフタヌーン』にて連載中)は、東京の進学校における高校生活を描いたマンガである。主人公の岩倉美津未(みつみ)は、地元・石川県から高校進学を機に上京した。彼女が東京の進学校を選んだのは、「T大」を出て総務省官僚になり、地元のような過疎地の対策に取り組む、という将来設計があるからだ。
とはいえみつみは、成績こそ優秀であるものの、勉学以外の場面では天然なふるまいが目立つ。そんな美津未をよく知るのが、地元の幼なじみ・遠山文乃(ふみ)である。単行本9巻では、ふたりの関係性をふみ視点で振り返るシーンがある。
幼い頃から仲の良かったふたりだが、高校進学を前に互いに無視し合った時期がある。きっかけは、みつみが東京の高校への進学を志したことだ。受験と上京を親に認めてもらえた、と笑顔でふみに報告するみつみ。ふみはその言葉と表情を、「楽しそうやね うちのことは置いていくんに」と冷たく皮肉る。
しばらくの間無視し合っていたふたりだったが、その気まずさに耐えきれず、どちらからともなく和解する。ふみはみつみを応援し、みつみは希望通り上京した。
そして回想は高校進学後へと移り、その後の関係性の変化が描かれる。
1年生の夏。みつみはふみとの再会を抱き合って喜び、東京土産のトートバッグを「おそろいにしよ!」と渡す。一方、1年生の冬。みつみはお土産を東京に忘れ、「賞味期限間に合わないかも〜」とふみに謝る。ふみは笑って気にしないそぶりをしながらも、みつみの微細な変化を感じ取り、心の中でつぶやく。
ふたりはこの後も、時間が経つごとに自然と、少しずつ疎遠になっていくのだろう。ふみはその予感に気づいている。しかしふみは、以前喧嘩した時のようにみつみを引き留めはしない。
「でもそれでいいんやと思う」
ふみがこう達観する背景には、みつみはいずれ自分とは離れたところに行く人間だ、という自覚がある。
中学生の夏、友人数人で下校していたときのこと。「ねぇ最近知ったんやけどさ とんびがああやって旋回するのって」と話し出すみつみ。しかしその話は、そばにいた男子に「出た! みつみのウンチク!」と軽くあしらわれてしまう。そして話題は「なぁ大通りのとこ なんか工事しよるよな」「てかこの辺にもコンビニほし〜」と、生活圏の他愛もないことに流れていく。
そんな光景を見てふみは思う。
地元に残る自分とは異なり、みつみは地元の外で大成するべき人間だ。ゆえに、みつみはいずれ自分とは離れた場所に行くのだろう。それはわかっている。
しかし、主観は客観で説得できるものではない。わかっているけれど、わかりたくない。中学3年生、冬服にマフラーを巻く季節。東京への進学を認められ喜ぶみつみに皮肉を言ったのは、葛藤するふみのせめてもの抵抗だったのだ。
事実の絶対性
一方、みつみはふみとのつながりをどう捉えているのだろう。みつみの捉え方は、至極単純で、そして明るい。
高2の夏、みつみは高校の親友たち数人を誘い、自らの帰省を兼ねた旅行をする。海で遊ぶ一行のところに、ふみも現れる。初めて会うふみに「ふみちゃんだ!」「みつみちゃんの親友なんでしょ?」と話しかけるみつみの友人たち。「もうほとんど会えてないんに そんなふうに言うてくれとるんきゃ〜」と喜ぶふみ。その言葉にみつみはこう返す。
みつみの言葉にふみは一瞬驚くも、少し頬を赤らめ、ほころんだ笑顔を見せる。みつみにとってふみは、「殿堂入り」の存在なのだ。
高1の春、東京。みつみは高校の同級生と話すなかで、高校受験を振り返り、「ふみがいなかったらダメだったと思う」と回想する。
中3の冬、石川。東京の進学校を志すみつみは、食事も喉を通らないほどのプレッシャーを感じていた。部屋着の甚平に、ボサボサの髪、目の下にはクマ。そんなみつみをふみは、「ギョーザ食べ行こ〜」と笑顔で連れ出す。
「受験終わったらさー またここ来てギョーザ食べよ 落ちても受かっても」と言うふみ。みつみは「落ちたらなんもならんもん」と暗い。ふみは「世の中的にはねー」と返し、こう続ける。
ふみの温かさにふれたみつみは、涙ぐみながらギョーザを味わった。
このギョーザディナーの一件は、おそらくあの「ケンカ」の後だ。みつみは当時を振り返りこう語る。
「頻度じゃないよ! 殿堂入りだから!」 みつみはふみのことを、純粋にそう思っている。どれだけ長く頻繁に続くかではなく、どんな出来事を共有してきたのか。みつみはその評価軸から、ふみのことを大切に思っている。「殿堂入り」というあまりにまっすぐなみつみの言葉によって、ふみもそのことに気づいた。
ふみは、あの頃はいつもそばにいたのに今は少しずつ離れている、という〈関係の相対性〉を問題にしている。しかしみつみは、あの頃こういう(嬉しい)出来事があった、という〈事実の絶対性〉に焦点を当てている。時とともにふたりの関係性が変わったとしても、ふたりの間に起きた出来事自体は揺るがない。
「殿堂入り」。みつみの簡潔な言葉によってふみは、今も自分がふみにとって大切な親友であることを確認できたのだ。
いつか疎遠になったとしても
私たちが友と疎遠になることを悲しむのは、「今疎遠になっていること」を「あの頃仲が良かったこと」と比べるからだ。だがそもそも、「あの頃仲が良かったこと」(過去)と「今疎遠になっていること」(現在)は別の問題ではないか。
過去に起きた出来事が後から変わることはない。今疎遠になっているとしても、あの頃仲が良かったこと(そして当時あった出来事)の価値が下がるわけではない。
友人関係は、偶然の出会いをきっかけに始まり、関わり合いを積み重ねるなかで少しずつつくられていく。「一緒に数日間の旅行に行った」「大事な場面で深い言葉をもらった」といった特別なエピソードがあるとしても、それらは他愛もない日常を積み重ねた上にあるものだ。
何気ない日常のなかで共有する、普通の時間、普通の会話の積み重ねこそが、ふたりの関係を少しずつ、そして確実に、知り合いから友人へ、そしてかけがえのない親友に変えていく。
何より大切なのは、この問いに明確に ”No” と答えられるかどうかだ。ふたりが確かに近いところにいたあの頃、共に過ごした時間。それが楽しいものだったと思えるかどうか。その後ふたりの関係が続こうとも途絶えようとも、あの頃確かに紡いだ時間の尊さは変わらない。
友人関係とは、両者に無理のない関わり方ができてこそ、満足できるものになる。関係が続くのか、疎遠になるのか、はたまた再会するのか。それらは縁とタイミングの問題であり、自然な成り行きに任せればいい。時が流れれば、それぞれの生き方や価値観も変わる。関係の継続も疎遠も再開も、流れに身を任せればいい。そういうふたりなのだから。
10年くらい会っていない昔の親友を思い出しながら、そんなことを考えていた。
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