記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

承認が文明を駆逐する ー『映画ドラえもん のび太と空の理想郷(ユートピア)』

 アラサーになって、ドラえもんの映画を2回も観に行くとは思わなかった。2023年3月に公開された新作、『のび太と空の理想郷』だ。

 本作は過去作のリメイクではなく、いくつかの原作短編を下敷きにしたオリジナル作品である。あらすじは下記の通り(以下、ネタバレ全開でお送りします)。

ある日のび太は、出来杉からユートピア伝説の話を聞き、誰もが「パーフェクト」になれる理想郷に憧れる。ドラえもんとのび太たちは、「タイムツェッペリン号」「タイム新聞」などの道具を駆使し、三日月の形をした理想郷「パラダピア」にたどり着く。パラダピアでは、高度な科学技術によって、誰もがよく学びよく働き、争いのない平和な社会が一見実現していた。しかしその実体は、天才科学者・レイ博士が、人を操る「パラダピアンライト」を開発するための実験場だった。のび太たちは反乱を起こし、レイ博士の野望を打ち砕く。冒険を終えたのび太は、「この世界ははじめからすばらしい」と、自分や他者を肯定できるようになった。

 本作の完成度は高い。伏線のさりげない張り方と鮮やかな回収(※1)、ここぞというシーンを盛り上げる音楽(※2)、往年のファンが反応するであろう小ネタの数々(※3)など、様々な技巧が物語の進行を味わうスパイスとして効いていた。映画ドラえもんの歴代作品でも、少なくとも「わさドラ」時代(2006年以降)のオリジナル作品の中では、良作の部類に入るだろう。

(※1)脚本は古沢良太。過去の脚本担当作は映画『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ、ドラマ『リーガル・ハイ』(フジテレビ、2012年)、など。
(※2)音楽は服部隆之。過去の音楽担当作は『新撰組!』(NHK、2004年)、『半沢直樹』(TBS、2013年)など。
(※3)大長編のお約束ネタ(謎めいたオープニング、「勉強合宿」という口実、「感動の再会もいいけど…」というセリフなど)、ひみつ道具の渋いチョイス(「吸音機」)、定番セリフのパロディ(「のび太のくせに…上出来だ!」)など、大きなお友達も満足するであろう小ネタが数多く仕掛けられている。

 この作品は、人間の「心」の両義性 ー「承認」を求める感情と、文明の発展に寄与した理性ー を描こうと試みている。しかし全体としては、特に終盤の展開において、「承認」の物語が前面化し、文明論的考察が後景に退いている。そして、この良作の数少ないつまずき -「承認」の物語の前面化と、文明論的考察の後退- はそのまま、時代の欲望を示している。

 以下では、①この作品で描かれている〈心」の両義性〉、②結果として描いてしまった〈「承認」の物語の前面化〉、③②を求める時代の欲望、について述べたい。

1 「心」の両義性

 この作品を貫くキーワードは「心」である。そして物語の中では、「心」が二つの側面 ー「承認」を求める感情と、文明の発展に寄与した理性ー から描かれる。

欲しかったものは「承認」だった

 まずは「承認」を求める感情、について。台詞を追うと、物語を動かす登場人物たちはみな「承認」を求めている。のび太は、勉強もスポーツも上手くいかないことが嫌になり、誰もがパーフェクトになれるユートピアに憧れる。ドラえもんは、パラダピアの「パーフェクトネコ型ロボット」ソーニャと出会い、彼の優秀さに憧れる。そのソーニャには、かつてダメロボット扱いされていた時にパラダピアに誘われ、改造された過去がある。そしてパラダピアを作ったレイ博士も、「承認」されなかった過去をもつ。レイ博士は、彼の才能を認めない一方で争いを繰り返す人類に絶望した。ゆえに、争いをもたらす「心」をなくし、平和なユートピアを作ろうとした。

 物語中盤まで、彼らの関係は、〈すでに「パーフェクト」である三賢人とソーニャ/「パーフェクト」に憧れるのび太とドラえもん〉という構図でバランス良く成り立っている。しかし、パラダピアの真実(レイ博士の野望)を知ったのび太が反乱を起こし、ソーニャまでもがのび太たちの側につくことにより、パラダピアは滅びる。誰もがパラダピアンライトにより洗脳された世界では、「パーフェクト」にはなれても「承認」されることはない。「承認」を求めるのび太やソーニャにとって、「承認」のない世界などディストピアである。ゆえに彼らはパラダピアを滅ぼしたのである。

 のび太たちが劣勢を覆す場面では、「承認」の連鎖が起きている。まずのび太は、ドラえもんの「僕はそのままののび太くんが…」という言葉で「承認」される。「承認」されたのび太は、次に仲間たちを「承認」する。ジャイアン・スネ夫・しずかの欠点を肯定し、長所を褒める。「承認」された仲間たちは洗脳から目覚め、のび太とともにレイ博士と戦う。「承認」されたのび太と仲間たちが、「承認」されなかったレイ博士を倒し、物語は収束する。そしてのび太は満足げに言う。「ユートピアなんかいらなかった」と。のび太は「パーフェクト」になりたかったのではない。「承認」が欲しかったのだ。

「もの」を通して描かれる、科学技術の発展史

 次に、文明の発展に寄与した理性について。こちらは描かれた「もの」を通して見えてくる。特に、序盤のタイトルコール映像によく表れている。中央に小型飛行機操縦用の帽子とゴーグルをつけたのび太がいる。背景には中世ヨーロッパ風の紙があり、紙には様々な空飛ぶ機械のイラストや計算式などが見える。飛行機、飛行船など、いくつもの機械が彼の左右を流れた後、中央ののび太がフェードアウトし、タケコプターの設計図が映し出される。そしてタイトル『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』が現れる。

 普段のび太たちが当たり前のように頼るドラえもんのひみつ道具(タケコプター)は、いきなり現れたものではなく、科学技術の発展史の上に成り立つ。さらに、ソーニャやマリンバ(未来の世界から来た賞金稼ぎ)の使う、性能の優れた道具からは、22世紀の文明(ドラえもんのひみつ道具)さえも発展途上のものであることが示唆される。
 人類が「いま・ここ」に有している文明は、過去の蓄積の上に成り立つものであると同時に、未だ発展途上のものでもある。歴史の蓄積を踏まえ、さらに進歩を志向したからこそ、人類の文明はここまで発展してきたのだ。

 一方で、科学技術は使い方を誤ると惨事を招くということも、歴史が示す教訓である。のび太たちの反乱により野望を打ち砕かれ、自暴自棄になったレイ博士は、パラダピアの自爆装置を起動させ逃亡する。のび太たちは、地元の街へ落下するパラダピア(だったもの)を、「四次元ごみ袋」に押し込めた。だが「冷却水」を失ったパラダピアは「熱暴走」を起こし、爆発寸前の状態に。ここでソーニャは、パラダピアの道具でのび太たちのタケコプターを撃つ。ソーニャだけが「ごみ袋」とともに上昇し、パラダピアは大爆発を起こした。

 科学技術は、私たちの社会を2万年前とは比べ物にならないほど豊かで便利なものにしてきた。しかし、使い方を誤れば、取り返しのつかない惨事を招く。その惨事は時に多くの犠牲を伴い、時に数世代かけて向き合わなければならない負の遺産を残す。この作品は、「空飛ぶ道具」や「理想郷」を素材として、科学技術の発展史を描いてもいる。

2 「承認」を求める感情の前面化

「承認」一辺倒のメッセージ

 人間の「心」がもつ両義性を、120分の国民的アニメという制約の中で、承認と文明の観点から描いたのは見事だ。原作のもつ豊かな想像力を尊重しつつ新たな物語に昇華したという意味で、映画『ドラえもん』としても屈指の名作といえる。だからこそ、残された課題が目立つ。作品から受け取るメッセージが「承認」一辺倒になってしまうことである。

 物語の終盤、レイ博士に反乱を起こすあたりから、この作品は観客に「そのままの自分でいい」というメッセージを繰り返し発する。ドラえもんはのび太に「僕はそのままののび太くんが…」と言う。「承認」されたのび太は、周囲に「承認」を振りまき始める。個性的な仲間を評して「色んな人がいるから世界は面白い」と三賢人に言い放つ。そして、パラダピアと比べて非難していたはずの地元を「この街が前よりずっと好きになった」と肯定する。ついには「ユートピアなんかいらなかった」「この世界ははじめからすばらしい」と博愛の言辞を述べる。

 そして、「そのままの自分でいい」というメッセージは、エンドロールとともに流れる主題歌で再度強調される。

君にはもう君だけの色も形も 優しさも強さもあるんだ
上手くいかなくたって 失敗ばっかりだって 僕はここにいるよ
I love you so much 大好きなんだ そのままで大好きさ
Paradise 宝物はそこにあるよ 気がついてよ
世界中探しても 君は君しかいないよ
広がる楽園 つなげよう 誰も誰もが Paradise

NizuU「Paradise」(Sony Music、2023年)

「そのままの自分」でいいのか

 「承認」を自分自身や他者に向けることは大切だ。しかし、「そのままの自分でいい」というメッセージが前面化し、文明論的考察が後景に退くことには違和感を覚える。技術を進歩させ、行動の選択肢や可能性を広げる、という向上心があったからこそ、人類の文明はここまで進歩してきたのではないか。

 作品の中に話を限定しても、「そのままの自分でいい」のだろうか。パラダピアから帰還して得られたものが承認と地元愛ならば、彼らが冒険に出た意義とは何だろうか。そもそも、のび太が「そのままの自分でいい」ならば、彼のそばにドラえもんがいる意味とは何だろうか。
 他者からの「承認」は極めて不安定なものだ。自分自身を承認するならば、その基準は自分自身で決められる。しかし、他者から承認されるためには、自らの振る舞いを他者の基準に合わせなければならない。のび太について言えば、パラダピアを滅ぼし地元を守った後も、彼の日常は続く。いじめっ子も厳しい先生も教育ママも変わらずいる世界で、勉強もスポーツも生活習慣も不出来なまま「そのままの僕を愛してよぉ…」と願うのは、無理筋というものだろう。

3 わかりやすく、承認されたい

 上記のように、この作品は人間の「心」の両義性 -「承認」を求める感情と、文明を発展させてきた理性- を台詞とものを通して描き出している。しかし、終盤で「承認」を求める感情が前面化したことにより、この作品には無理が生まれている。最後に考えたいのは、なぜ「承認」を求める感情が前面化したのか、ということだ。この物語の展開は、時代の欲望を映しているのではないか。私たちは文明を駆逐してでも、承認を欲しがっているのではないか。

競争に疲れた私たち

 例えば書評家の三宅香帆は、『女の子の謎を解く』において、2010年代におけるグループアイドル(AKB48、乃木坂46など)の流行を、時代のニーズという観点から分析している。AKB48グループや坂道シリーズが2010年代に流行したのは、それらグループの世界観が、人々の新自由主義に対する捉え方と合致していたからだ、と三宅は述べる。

 彼女たちの物語は常に「乃木坂46が、外界では見つけられなかった私の居場所だ」という言葉に支えられる。AKB48グループがむしろ外界から隔離された競争の場だったのとは正反対だ。つまりAKB48グループはそのフォーマットそのものが「争うべき市場」だったのに対して、乃木坂46のメンバーは、どこか乃木坂という場を「争って傷つかなければいけない市場からの逃げ場」として見ている。(中略)
 自由に競争しろって言われるこの市場から、逃げたい。そしてどこか安心できるところで居場所を見つけたい。--そんな私たちの欲望が、「逃げ恥」を、『コンビニ人間』を、そして乃木坂46を、発見せしめたのではないだろうか。

三宅香帆『女の子の謎を解く』(笠間書院、2021年)kindle版 page 139 of 216

 そして2020年代に入り、グループアイドルの重心は、乃木坂46・欅坂46から日向坂46・NizuUへと移る。新自由主義に対する人々の「気分」の変化とともに。

 新自由主義という冷たい風が吹く時代、しかも新型コロナウイルスの流行によってますます殺伐とする2020年。だからこそ日向坂46は、陽射しのあたる場所を作る。あえて思想の入り込まないひだまりを。そこだけはあたたかい、ハッピーオーラにあふれた、明るい空間を。だから笑いにも特化する。
 同じく2020年に流行したアイドルグループNiziUの曲も『Make you happy』というタイトルで、奇しくもテーマはほとんど日向坂46とかぶる。きみを幸せにするよ、笑っているのがいちばんだよ! と。目指す場所は、ただの幸せ、だ。
 もう誰も、市場で誰かが傷ついたり、出し抜いたりするのを見たくない。そんなの、現実でお腹いっぱいだ。せめてアイドルくらいは、楽しくやさしく明るくあってくれ。そう私たちは欲望する。

前掲三宅(2021)kindle版 page 144-145 of 216

 競争に疲れた人々の欲望は、安心できる居場所を求めた後、やさしく明るい景色へと向かった。「そのままの自分でいい」というこの作品のメッセージも、こうした時代の欲望と結びつくものだろう。
 「そのままの自分でいい」状態は、ある意味で楽である。目標を設定したり、その目標に向かって行動を起こしたりする必要がないからだ。競争することから、居場所を見つけることへ、そして無思想な幸せへ。私たちの欲望は、複雑な葛藤から透明な幸せへ、努力から承認へ、洞察から脊髄反射へと向かっている。

感情と理性のあいだで

三賢人「心をなくせば皆パーフェクト」
ソーニャ「どうしてもしたいこと、したくないこと。そうした強い気持ちをもった人間の心は、決して消すことはできない」

 のび太たちが反乱を起こす終盤、この台詞の通り、感情と理性は善悪の二元論で区別されている。「心」を守ろうとする感情(のび太たちの気持ち)は「善」、「心」をなくそうとする理性(レイ博士の発明)は「悪」、として描かれている。そして「悪」は滅び、レイ博士は彼が発明した優れた科学技術とともに物語から退場する。しかし、感情と理性とは、そう簡単に二分できる、ましてや善悪に分けられるものだろうか。

 作家の與那覇潤は、『知性は死なない』において、自らが精神病を患った経験を基に、言語と身体の関係について次のように述べる。

 私が言いたいのは、 言語が理性的で身体が感情的だとは、かならずしもきれいに二分できない状況があるということ。そしてそういう状況で、「言語の方が高尚な営為なのだから、その力で卑俗な身体を抑制しろ」などと命令しても、絶対にうまくいかないということです。
 あるいは、最初はそこまで腹を立てていたわけではないのに、その人の悪口を「言語」にして他人にしゃべってしまうことで、怒りがどんどんエスカレートし、とまらなくなってしまったという経験はないでしょうか。私は、あります。
 そのような事例を考えると、問題はたんに「感情的な身体が、理性的な言語をしたがえてしまう」点にあるのでも、ないことがわかります。むしろ私たちにはしばしば、感情的な言語が暴走して、身体をひきずっていってしまうことすら起きる。

與那覇潤『知性は死なない -平成の鬱をこえて』(文藝春秋、2018年)p.116

 言語と身体、あるいは理性と感情は、複雑に絡み合っている。どこまでが言語でどこからが身体、と明確に線引きできるものではない。ましてや、どちらかが善でもう一方が悪、と断じられるものでもない。
 だが『空の理想郷』では、理性と感情を明確に二分し、理性を感情が駆逐する、という構図になっている。そして「そのままのあなたでいい」と承認してくれる。そうした無思想な優しさは、時代の欲望を映しているのかもしれない。しかし、「主観」に訴えかける「わかりやすい」メッセージが前面化することにより、見えなくなるものがあるのではないか。

 映画のエンドロールが終わった後には、次回作の公開決定を予告する「お約束」の場面があった。国民的作品には、それなりの興行的成果が求められる。人々から「承認」されることを求めれば、物語作品もある程度時代の欲望を映さざるを得ない。(本来は)子ども向けの作品に、あまりの複雑さや深遠さを求めるのも筋違いだろう。しかし欲を言えば、日常の外側に連れ出してくれるのが、物語の想像力であり、SF(少し・不思議)の『ドラえもん』という作品であってほしい。来年はまた新しい冒険に出会えると信じて、ここで筆を置くことにする。

より良き〈支援者〉を目指して学び続けます。サポートをいただければ嬉しいです!