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「死を選ぶ生き方」は正しい生き方として良いか?~安楽死制度を議論する手引き01

論点:日本人として、「死を選ぶ生き方」は正しい生き方として良いか?

安楽死制度の議論をしていく中で、それぞれの言い分がかみ合わない理由のひとつに「個人レベルの話と社会レベルの話をごちゃごちゃにしている」パターンがある。
まずはこの点から整理していこう。

「私は私、あなたはあなた」の議論には実りがない

安楽死制度に反対する意見には様々な種類がある。その中で、この章では「これまでギリギリの状態で生きてきた人が、死に追いやられる」という意見を取り上げてみよう。
例えば、こんな意見。
「難病を抱え、多くの人たちの支えがあって生きてこられた人たちがいる。安楽死制度ができることによって『そんなしんどい思いをしてこのまま先も見えずに生き続けるくらいなら、安楽死制度を用いて楽に人生を終わらせたい』と、その当事者が思ってしまうかもしれない。それまで精神的に崖っぷちな状況でも、簡単に死ぬことができないから、仕方なく今日も生きてきたのに、安楽死制度はその背中をチョンと押して、崖から突き落としてしまうかもしれない」
「私たちが支援している難病の患者さんたちは、苦しい思いをしながらもみんなで頑張っている。しかし、安楽死制度ができたら本人や家族、またこれまで支援をしてきた人たちの中から死の誘惑にかられる人が出てくるかもしれない。そうやって社会的に追い詰めるようなことをしないでほしい」

それに対する反論は例えば、
「生きたいのに死に追いやられそうな人がいるなら、制度運用の段階できちんと除外されるように設計すればいいだけ。あなた方が支援している患者さんたちが『生きたい』と願うなら、どうぞ生きてください。でも、私たちが『死にたい』と求めているのにあなた方の『生きたい』を押し付けないでくれますか。安楽死制度ができて、私たちが死んでもあなたたちには関係ないことです」
というものだ。

この反論自体は妥当である。
しかし、多くの場合ここで賛成派が「なるほど」となることはない。
では、この議論構造はなぜ実りが無いのだろうか。

個人レベルの議論から社会レベルの議論へ、スイッチを切り替えよう

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