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良い生、そして良い死を得るためには?

「良い死に方ができるかどうかは、運でしかない」

 と言ったら、多くの人たちは驚くだろうか。

 そんな、身も蓋もないと思うかもしれないが、これは厳然たる事実である。
 いまあなたが、いかに裕福であろうが、高い地位についていようが、知り合いに医療者がたくさんいようが、全て関係なく、その死があなたにとって「良かった」と思えるようになるかは運任せなのである。

 もちろん、「良い死」「悪い死」というものは、患者さん本人が決めることなのでそれ以外の周囲の人間から見てその良し悪しを計ろうなどということはできない。一般的には悲惨と言われがちな「孤独死」だって、本人にとってはそこそこ満ち足りた生の延長線上にあった死かもしれないのだ。
 しかし、それでもこれは本人にとって明らかに「良い」と言えない死であろう、と言えるものがある。
 それは、「本人が望まないところで勝手に生き方を決められた結果としての死」だ。

本人が望まないところで勝手に生き方を決められた結果の死

 例えば、ある70代の患者さん・Aさんは大腸癌を患い、これまで治療を続けてきた。
 Aさんは中規模の会社社長で、資産は億単位であり、また知り合いも多く、その中には医療者もたくさんいた。最初は大学病院で標準治療を受けていたが、その効果が乏しくなってきたとき、友人の医者の勧めで非標準治療のクリニックに通うことになった。

 しかしそこでの治療もあまり効果は無く、次第に腹痛や背部痛が増してきたが、主治医であるクリニックの医師が出す鎮痛剤はほとんど効果が出ない。Aさんは緩和ケアの専門家に診てもらいたい、と希望するも、主治医からは
「いや、あなたはまだ治療の最中だから、緩和ケアの病院は受け付けてくれないと思いますよ」
と突っぱねられた。
 事実、Aさんや知り合いが近隣の緩和ケア施設にいくつか問い合わせてみたところ、
「積極的治療を受けられている状況では、当院での受け入れはできかねます」
との返答ばかりであった。

 それでも痛みに耐えながら治療を続けてきたAさんだったが、ある日、急に脚が動かなくなり、立てなくなってしまった。救急車で近隣の総合病院に運ばれたAさんは、そこで「癌が背中の骨に転移しており、その癌が脊髄を圧迫していることで下半身麻痺に陥ってる」と説明を受けた。そして、その麻痺を根本的に治す手段は無いということも。
 クリニックの主治医からは「通院できないなら、うちでの治療は終了」とだけ告げられ、また総合病院の医者からも「当院ではこれ以上できることは無いから退院して欲しい」と迫られる。さらには家族からも「歩けなくなってしまった夫の介護はできない」と告げられ、Aさんは介護施設に送られることに。介護施設には、友人も、家族も訪れることもほとんどなく、一人で天井を眺めながら「どうしてこんなことになってしまったのだろう」とAさんは呟くのだった・・・。

患者の人生を捻じ曲げる「医療の常識」という権力

 Aさんが選択を間違えたわけではない。
 仮に、標準治療だけを受け続けていたとしても、似たような結果になった可能性は高い。

 ここでの問題点は、Aさんの人生の途中から、「Aさんの意志ではどうすることもできない力で人生が捻じ曲げられていく」事実。そして、その中心にあるのが「医療の世界における常識」という大きな権力なのである。

 積極的治療を受け続けるのが当然、という常識。
 積極的治療をあきらめなければ緩和ケアは受けられないという常識。
 病院には長く入院できないから、早々に追い出されるという常識。

 どんなに浮世で権力やお金を持っていようが、医療の世界には全く別の論理が働いていて、病の前には全てが平等化されてしまう。
 そしてその上で、そういった「常識」に捉われず、患者さんの生き方を第一に考えてくれる病院や医者と出会えるかどうか、そもそもそんな医療が自分の暮らしている地域に存在するのかどうか、自分にとって「死」が見えてきて初めて知ることばかりなのである。

医師に任せるのではなく、自分で生き方を選ぶために

 本当であれば、どの地域で暮らしていたとしても、病院にかかり続けてさえいれば、何も準備をしていなくても最善の生き方が選べるような医療体制であることが望ましい。
 それを多くの国民が信じてくれているからこそ、最後の最後まで「良い死、良い生が送れるはず」と考えてくれているのかもしれない。
 だとしたら、本当に申し訳ないことだ。
 現実はそうではない。
 一度しかない人生を最後の「医者(医療)ガチャ」で失敗して、人生捻じ曲げられて欲しくないと切に願う。

 では、最後の最後で失敗しないためにどうすれば良いか?

「医者ガチャ」は一定の確率で失敗する。
 それが現実なのだとしたら、もう残り少ない終末期になってから緩和ケアを受けることを止めるべきだ。
 緩和ケアの受け方は、多くの地域で複数ある。病院や在宅、または暮らしの保健室のような場も含めて複数の選択肢があることが多い。その中から、自分にとってまずは最適なパートナーと思われる場を選んでみる。元気なうちからだ。時間や体力があれば、そこがダメなときには、また別のパートナーを探すこともできる※。
 つまり、ガチャを何回も回すことで、結果的に最適な生き方を選ぶことができる、という考え方だ。しかも、ゲームのガチャと違って、医療のガチャは何回でも引きなおすこともできる。A病院にかかっていたけど、途中からBクリニックの訪問診療に切り替わり、それでもまた具合が悪くなった時はA病院にかかる、といったことも可能。もちろん、途中でCクリニックの訪問診療に切り替えたり、再入院はD病院で、など選択することだって可能である。ドクターショッピングを勧めるわけではないが、少しは選ぶ自由が患者の側にあって良いのではないかと個人的には思う。

※それを選べない地域については、医療者や市民が緩和ケアリソースの充実や集約化について議論・実装を一刻も早く始めるべきだ。

 いまの緩和ケアは、医師が主導している面が大きすぎる。
 自分の生き方は、自分で決める。
 それを実現したいのであれば、終末期になってからの一発勝負で決めるのではなく、もっと早い時期から地域におけるパートナーを見つけていくべきだと僕は考えている。

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