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家康の時代、貿易商社にしてゼネコン、角倉了以・素庵

 戦国時代から江戸初期に活躍した京都の豪商、角倉。朱印船貿易で主にトンキン(現在のベトナム北部)との交易、それもフェアトレードに徹した貿易商社であり、同時に流通インフラである河川の土木工事を手掛けたゼネコンであもあった。その知られざる姿をご紹介しよう。


「天竺徳兵衛」は角倉船にのってインドシナ半島、アユタヤを訪れた

浮世絵「天竺徳兵衛」豊原国周画

 それまで泣かず飛ばずだった脚本家・4代目鶴屋南北が書き下ろし、齢50歳にして70日連続公演の大ヒットをよんだ歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」。
 舞台上の屋敷が崩れ、妖術使いの主人公が蝦蟇の背中に載って現れたり、本物の水を使って「水中」での早替わりなど、特殊効果をふんだんに用いて、観客の度肝を抜く演出に当時の観客は大興奮、いわば江戸時代のVFX映画のようなものだった。
 この芝居には、難破船で唐天竺、諸外国を経巡り、帰国した船頭・徳兵衛がその異国のことを面白おかしく語ってみせるシーンがある。
 実は、この演目は「天竺渡海物語」という実話がベースになっている。
 この物語は17世紀の初め、寛永年間に2回御朱印船に乗り込み、台湾、マカオ、インドシナ半島を経て、アユタヤ朝のシャム(現タイ)に渡った徳兵衛という男がその晩年、海外での見聞をまとめて長崎奉行所に提出したとされるものだ。
 海外渡航は死罪をもって禁じられていた18世紀の日本において、異国の様子を伝える物語は広く興味を持って人々に迎えられ、さまざまな写本、創作が生まれ、果ては人形浄瑠璃や歌舞伎にまで発展して人気を博した。
 この徳兵衛が15歳で書役(書記)として乗り込んだのが、江戸初期に幕府から得た御朱印状をもとに安南、トンキン(現ベトナム北部)と交易を行った京都の豪商・角倉の船である。
 この徳兵衛が語るところによれば、397人が角倉船に乗船していた。大きさは現在の船で500トンクラスの船であったとされる。われわれが想像よりかなり大型なものだ。

渡海船図屏風(京都・天球院蔵)

京都・天球院の渡海船図屏風は角倉船描く

 角倉では、朱印船が無事航行を終えて帰国すると、それを記念して寺院に扁額、すなわち絵馬を奉納している。京都・清水寺には寛永11(1634)年角倉厳昭が納めた扁額が残されている。残念ながら現在は非公開となっている。
 その扁額とまったく同じ絵が屏風として京都の天球院に収蔵されている。こちらも一般に公開されてはいないようだが、同寺院のウェブサイトに高精細の画像があり、船の細部と乗組員の姿が描かれているのがわかる。当時の風俗、衣装を伝えるものとしても価値の高い屏風絵だ。
 甲板上には日本人に加えて、西洋人や黒人も描かれている。衣装や帽子、髷、顔貌が細かく書き分けられているので、それとわかるのだ。
 着流しを着た船長だろうか、くつろいだ姿で、甲板の上で演奏される音楽と踊りを楽しんでいる。船長の隣には外国人とおぼしき男性がワイングラスを片手にして甲板上の喧騒を眺めている。彼は雇われた航海士だろうか。
 西洋から伝わったゲーム、バックギャモンに似た遊び、双六に夢中になっている一群、カルタという、こちらもポルトガルから伝わったカードゲームに興じる人たち。長煙管でたばこをくゆらす人もある。

盤双六を楽しむ
カルタに興じる一群

 双六もカルタも日本ではその姿を変えて、独自のゲームとして発達を見たというのも面白い。
 そうした甲板の賑わいに背を向けて、ひとり海を眺める人物まで描かれている。
 渡海物語で徳兵衛の語るところによれば、船員は長崎、スペイン、オランダなどの航海に慣れた人々が雇われたとある。船長以下、操舵手、帆柱、手綱、碇を操るもの、積み降ろし、掃除、書き付けを担当するもの、合計80名だったと記されている。
 その他300人を超える乗客の多くは客商といって乗船料を支払って個人で海外と商売をする人々であったと推測される。
 トンキン(東京、現ベトナム北部)での外国人の長期の居住は認められていなかったので、日本人町は存在しなかったようだが、ベトナム中部のコーチ(交趾、現ベトナム中部)やシャム(現タイ)には日本人町があったので、戦国時代が終わり失業した武士は傭兵として、日本国内で迫害を受けたキリシタンらは逃亡者として海外に渡った人たちもあったらしい。
 キリシタンについてはローマ・カトリック教会の記録にはベトナム中部の貿易港ホイアンに多くの日本人キリスト教徒が暮らしていたことが記録されており、中には宣教師として活躍したものもあった。ただし洗礼名で記録されているのみであり、彼らの日本語名は今に伝わっていない。

インドシナ半島地図(1760年)

家康は駿府城で朝鮮、明、諸外国との関係修復、全方位外交めざす

 家康は天下統一を果たすと、将軍職は秀忠に譲り、駿府城に「隠居」した。そこで家康は、財政、外交、商務、外国人に関するブレーンを集め、秀吉の朝鮮出兵によって最悪となった諸外国との外交関係を回復し、同時に私貿易を制限して幕府による一元的な管理貿易の構築を目指した。
 最近では、家康がスペイン領のメキシコから銀の鉱山技師を招いて銀山開発を行い、スペイン航路への乗り入れも画策していたことがわかっている。旧教国のスペイン、ポルトガルと新教国オランダ、イギリスとの対立もうまく利用して、家康なりの全方位外交に努めていた。

狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵

 秀吉の軍隊の派兵で戦場となった朝鮮半島に対しては、拉致した被虜人を返還している。その数は6100 〜7500人と推定されている。
 李氏朝鮮から日本への外交使節団のことを朝鮮通信使と呼んでいるが、そのはじめ3回は「回答兼刷還使」という名称で、回答とは国書に対する返答、刷還とは日本の連れてこられた被虜人を連れ還すという意味があった。    
 明国に対しても直接、間接に国交回復を家康は試みるも、明は日本に対する海禁策を解除するつもりはなく失敗に終わった。
 そこで注目されたのが、東南アジア各国の港市との中継貿易だったのだ。
 すでに中国、韓国、日本の多国籍海賊集団と化した倭寇は、中国沿海の港市を攻撃し略奪を欲しいままにしていた。
 そのため明は海禁政策をとっていたのだが、当時はそれが多少ゆるんでいたのか、中国人による密貿易は盛んに行われていたのだった。
 東南アジアの各港市では、中国や欧州からの商船を受け入れて、欧州が求める中国の商品を中継して盛んに取引を行って利益をあげていた。
 中国の、特に生糸や絹織物の需要が戦国時代の終了とともに急増していた日本では中国の沿海部よりさらに遠い東南アジアの港に遭難のリスクを冒してでも、それらの物資を手に入れたかった。だから私貿易、密貿易も急増していた。
 私貿易、密貿易であれば、海賊まがいの行為もあったにちがいない。乗組員の中には不届ものもいただろうし、行き違いから騒動に発展することもあったに違いない。海賊か海商かは明確な線引きなどはなかった。

外蕃書翰: 「安南国大都統瑞国公奉複書」国立公文書館蔵

 1601年、安南(現ベトナム)から商船がやってきて家康宛の国書が届く。その内容は、​​白浜顕貴と名乗る海商が順化の港を訪れたが、嵐に遭い、船が破損し動けなくなった。が、彼らを海賊と思い、地方長官たちは船員たちと戦い、あるものは殺された。このことは遺憾であり、たいへん申し訳ない。ついては貴国と正式な通商関係を結びたい、というものだった。
 これに対して家康は返書をしたためた。
「貴国で不法をはたらくものは、貴国の法によって裁かれることに何ら問題はない。日本はすでに平和となり、貿易にも適している。貴国と正式な交易を取り結びたい。今後は我が国が発給した朱印状を所持するものとのみ交易を行って欲しい」
 そしてその国書を持って1603年、角倉家の船は安南を訪れた。
 その際、乗船者に対して遵守を求める行動規範、Code of Conduct「舟中規約」を儒学者の藤原惺窩に頼み起案してもらった。
 この「舟中規約」は、乗組員に対して1、一方が儲けて他方に利の少ない取引はするべきではない、2、衣類や言葉を怪しんで相手を蔑んではいけない、3、乗組員同士は互い助け合わなければならない、4、酒色に溺れてはいけない、5、詳しくは別紙に記す、という内容だ。
 倭寇による武力を用いての掠奪や、オランダ船とスペイン・ポルトガル船との間では、戦時の敵船からは私掠も国が許可していた時代にあって、貿易を行うにあたっての乗組員への行動規範としては先進的なものだった。
 日本は幕府の朱印状による管理とこうした行動規範のもとでの交易を約束することで、初めて相手国の信頼を得て東南アジア諸国との貿易が可能となった。
 角倉船が取り扱った輸出入品は、日本からの輸出では、銅、鉄、薬罐、所帯道具、扇子、鏡、銭、硫黄など、日本への輸入では小黄絹、北絹、唐綾、綸子、紬、肉桂(シナモン)、縮砂(漢方薬)、鬱金(ウコン)などであった。日本からは鉱物資源が、日本へは絹織物と薬の原料が取引された。
 特に角倉家のもととなる吉田家は代々医術を営む家系で、朱印船貿易をはじめた角倉了以の弟、宗詢は医師であり、その父は明国に渡って医術を学んだ医師であった。
 そのため医術に必要な薬の原料を輸入したものと思われる。
 朱印船が運んだ貨物の中で日本から運ばれたものに、刀や鉄砲など武器、武具も目立っている。戦国時代が終わり、日本国内でだぶついていたであろう兵器を日本は海外に輸出していたのも事実だ。
 安南は当時鄭氏(トンキン)、阮氏(コーチ)の南北で内戦が戦われていた。日本はそのどちらとも交易を行い、武器を輸出していた。だから阮氏は日本に対して、トンキンとの取引を停止するように求める書状を日本に送っていた。武器輸出が朱印船貿易の背景にあった。

 角倉家には都合16回の朱印状が出された。朱印状は1回限りとされたので、無事帰国すれば朱印状は幕府に返却しなければならない。少なくとも16回の渡航があったことが推測されるが、そのうち1回は帰路ゲアン沖で暴風にあって遭難し、5名が死亡、105名は生き残り、ベトナム側の好意で船をあらたに造り、日本へ送り返したことも記録に残っている。フェアトレードを心がけていた角倉船だからこその安南側の好意だったともいえよう。
 そして、朱印船貿易は1635年を最後に終了する。キリスト教の禁教に加えて、日本人の海外への渡航を禁止する命令が1636年にくだったからだ。
 角倉は朱印船貿易の再開を幕府に再三要請したようだが、再開の決定はなされなかった。

角倉は当時のインフラ工事を請け負うゼネコンだった

大悲閣より嵐山をのぞむ

 角倉了以は、朱印船などの貿易で儲けた資金を背景に、京都の保津川、高瀬川、山梨の富士川の開削、土木工事を行なった。現代でいえば治水工事、流通インフラ整備なのだが、それを自己資金で行い、かわりに通行料を徴収することを幕府からゆるされて、その資金の回収にもあたった。トラックや鉄道のない時代、大型かつ大量の物資を輸送するには、川に船を走らせたり、木材をいかだに組んで運ぶことが物流インフラとしては重要だった。明治期に鉄道の発達をみるまで、水運が物流の中心にあり、それが日本の経済に果たした役割はきわめて大きい。公共工事を民間が請負い、通行料を受け取ることで、オペレーションを行い、最終的には国のインフラとして用いられたのだから、今はやりのBOT(Build Operation Transfer)の先駆けといっていいだろう。角倉は江戸初期において商社・海運業者であると同時に、土木工事を請け負うゼネコンでもあった。
 了以の息子、素庵は藤原惺窩に儒学を学び、書道においては能書家として知られ、事業意外にも活版業を行い、史記をはじめ、古活字をもちいた出版業も行なった。江戸初期にあって、日本の儒学や文芸の発展にも影響を与えた。晩年、らい病、すなわちハンセン病に罹患し、隠棲しつつ、蔵書に囲まれて暮らした。
 嵯峨野の保津川沿いには、角倉了以がつるはしを手に仁王立ちになっている像もある。また了以が建立した大悲閣千光寺という寺もある。大悲閣からは嵐山を一望することができる。大堰川の土木工事に携わり、亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた寺だ。嵐山観光のついでに角倉の朱印船貿易の繁栄と土木工事の功績をしのび、訪れてみてはいかがだろうか。

文=新妻東一

<参考文献>
文化デジタルライブラリー:https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/
天球院:http://tenkewin.com/
通航一覧第四(国書刊行会本)
通航一覧第八(国書刊行会本)
通航一覧第第二百六十七(国書刊行会本)
漂流奇談全集「天竺徳兵衛物語」
金碧の花〜重要文化財・妙心寺天球院襖絵展「角倉船図について」
金永鍵「印度支那と日本との関係」
張慧珍「徳川家康の駿府外交体制〜駿府外交の構想について〜」
蓮田隆志「文理侯陳公補考」
蓮田隆志「17世紀ベ トナム鄭氏政権と宦官」
林屋辰三郎「角倉了以とその子」
岩生成一「朱印船と日本町 」
菊池百合子「ベトナム北部の朱印船寄港地、ゲティンにおける日越交流の新展開」
菊池百合子「意外と盛んだった江戸初期の日越交流」
Huynh Trong Hien「環シナ海における近世日越関係史の研究」


 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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