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「無理」と言わない


「無理」「むり」「ムリ」

これは圧倒的にネガティブな断定を意味する言葉だ。

1%の可能性も許さない、自分勝手な響き。

私はこの言葉を極力使わないようにしている。

きっかけは母の指摘


私が「無理」の使用を控えるようになったのは小学4年生の頃だ。

当時新しくできた友人が、頻繁に私を遊びに誘ってくれるようになった。
この日はどう?この日空いてる?とたくさん予定を聞いてくれた。

私は、照れ臭かったのか、少し面倒に思ったのか、相手の期待を重く感じてしまったのか、ハッキリとは覚えていないが、

「この日は無理だ、ごめん。」
「その日も無理だ、ごめんね。」

などと返事をしていた。
聞かれたことに答えた。そのことに私は何の違和感も覚えなかった。

すると、一連のやり取りを見ていた母からこう言われた。

「無理って、アンタそれ冷たくない?私まで悲しい気持ちになるよ。」

私は、ハッとした。

YESかNOのどちらかを、正確に相手に伝えるべきだ。
それ以上でもそれ以下でもなく、そう思っていた。

そんな、何も含みも持たない私の「無理」は、相手にとって、「圧倒的な拒否」に映ってしまっていたのかもしれない。
私は、「ごめん」をつければ、「無理」の響きが軽くなるとでも思っていたのかもしれない。

この日から私は「無理」の使用に対して気を遣うようになった。

(※ちなみに、この友人とは今も関係が続いており、予定を合わせるときは毎回このときのことを思い出してしまう。)


自分に向けられる「無理」


時は過ぎ、中学生、高校生、大学生、そして社会人。
「無理」という言葉はやがて自分に向けられるようになった。
受験、就活、新しい環境への適応、人間関係。
壁にぶつかるたび、「こんなの無理だ」という声が、脳裏をかすめる。

これは、正直どうしようもない。
思わないようにしようと決めて、すんなり思わないように出来るほど、人は都合の良い生き物だとは思わない。

だからせめて、口に出したり文字にするのは避けたいと思う。
外に出る言葉は想像以上に強力で、本当に無理だと頭に判断させてしまう恐れがあるからだ。

そんなふうに、自分で自分に「無理」を言いそうになったら、何故無理なのか?その理由を考えるようにしたい。
無理か、無理でないか、その判断はそれからでも良いように思う。

一方、時には、周りの人からの「そんなのお前には無理だ」いう類いのメッセージを、嫌でも感じてしまうこともある。

そんな時は、声を大に、「どうして?」と問いたい。
自分でも判断できないことを、どうして他人に判断できるのか。
断定できる根拠を、示してほしいと思う。

そういう時は大抵、その人自身が、自分でやるのは「無理」だと思っていることが多い。
他人からの「無理」には、疑問を投げることが得策のように思う。

「無理ではない」と「できる」の違い


「無理」を使わないことにしたら、何が起きるのか?

このnoteでいう「無理」の対義語は、「可能/できる」だと思って話を進めている。
(本来の「無理」の対義語は「道理」らしい。)

では、「無理ではない」と「できる」はイコールなのか?

私は必ずしもそうとは思わない。

「無理」を使わないようにするからと言って、全てを「できる」と思わなくてもいいと思うのだ。

「無理ではないよ」「できるかもしれないよ」
そのくらいだっていいのだ。大事なのは可能性を否定しないこと。
「無理」を使わないというだけで、そういった余裕が生まれるのではないだろうか。

ここで、私が勤めている会社の、社長の座右の銘を取り上げたい。

「人間は、可能は証明できるが、不可能は証明できない。」

個人でレンズ式プラネタリウムを作るのは無理だ。
そう言われながら、個人でレンズ式プラネタリウムを作った。
そんな、クリエーターとしての言葉であるが、誰にでも当てはまる言葉だと思う。

「無理」を証明できる術を、残念ながら私たちは持っていない。
もし証明ができれば、こんなに楽なことはない。

証明ができないから、私たちは、悩み、苦しみ、動くことができる。

そんな可能性の海を泳いでいくのが、人生の醍醐味ではないだろうか。

自分にとって大切なこと。
それは、「無理」を使わず、可能性と余裕を常に持っていたいという心持ちなのかもしれない。


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