ベッドメイクの街
【 first half 】
視界の端から端までに満遍なく君臨する比叡山は、巨大な蛞蝓(なめくじ)によって覆い尽くされていた。辺りに充満している甘さと刺激とが混在した魔性的な香りは、どうやらこの蛞蝓が出処のようだった。
私の傍には、2年ほど前に死んだ元彼がニコニコした顔で佇んでいる。巨大な蛞蝓を指差しながら、「おで、あの蛞蝓が、すき」と囈言のように繰り返す。
見ると元彼は、目を見張るほどの大きな骨壷を抱えていた。聞いていると、どうやらその骨壷の中に、あの蛞蝓の体液を注いでもらいたいようだった。
蛞蝓の体液はヘロインだそうだ。しかしそれだとこの香りの説明がつかないので、実際にはヘロインがもたらす効能を孕んだ、まったく未知の薬物なのだろう。雲母坂に目をやると、白装束に身を包んだ何千人もの集団が、同じように骨壷を抱えだらだらと列を成している。
僧侶や勅使が繰り返し通ったであろう雲母坂がジャンキーで埋め尽くされた光景は、私をなんだか愉快な気持ちにさせてくれた。
元彼は私に目もくれず、慌てるようにジャンキーの列に割り込んでいく。
「ちょ、ちょっと待って」
私は彼を呼び止める。掴んだ彼の服の裾は酷く濡れていた。
「もうクスリはやめるんだって、この間言ってくれたばかりじゃない。私とこの前してくれた約束は、もう忘れちゃったの?」
声が届いているのかどうか、私も、恐らく当の本人もあやふやという感じだった。辛うじて彼が絞り出した言葉は、「忘れていない」と言った趣旨の言葉であった、と思う。それほど彼の声は霞み、震えていた。
「じゃあどうして」
「いきが、できないんだ」
「え?」
私が聞き返すと、彼の皮膚は突然硬質化し、ボロボロと崩れ始めた。それなのに、胸部から下は妙に透けて見えた。剥き出しになった臓器のほか、感情を具現化したような紫色の塊が、皮膚の隅々から溢れ出た。
「気持ち良さとか、万能感とか、もうそういうものはほとんどないんだ。例えるなら溺死寸前に、そっと酸素を手渡されるようなものかな。君が普段当たり前に吸えているそれは、おれにとっては何にも代え難い救いなんだ。クスリは、森羅万象あらゆる物々の価値を途方も無い高さにまで底上げしてしまう。もっとも、おれ自身がただ堕落してしまっているだけかもしれないのだがね。ところで君は、数霊という言葉を聞いたことがあるかい」
「数霊?」
「日本の神道において、言霊と対を成すとされるものだ。言霊は数霊に、数霊は言霊にそれぞれ変換が可能で、日本では占いに使われることもある。蛞蝓の数霊はヒフミだ。あの世とこの世とを繋いでくれる、神聖な生き物なんだ。つまりあの蛞蝓様は無害、いやそれどころか、おれに永遠の安寧をもたらしてくれる救世主とも言える存在なんだ。おれは、おれたちは、あの蛞蝓様に会うために、今日までこんなクソったれな毎日を、デラシネのように、アドバルーンのように、ふわふわと途方もなく彷徨ってきたというわけだ。おれたちを止めることなんて、きっと誰にもできやしない。さあ、上等なヘロインとユーフォリアが待ってる。はやくそこを退いてくれ」
彼は早口でそう言うと、私の手を振りほどき比叡山に向け走り出した。しかし、突然現れたマサイ族によりショットガンで射殺されてしまった。マサイ族は流暢なマサイ語で何かを叫びながら、彼の亡骸に何度も何度も発砲した。
その場に残った穴だらけの彼を見て、私はちょっと、笑ってしまった。
【 latter half 】
「って言う夢を昨晩見たんだけど、里美、夢占いとか詳しくない?」
「シャブ中の走馬灯みたいな夢だ」
悪夢を見るのは、この夢が醒めてからだ。
宵の淵に腰掛ける私に、飲んだくれの悪魔がそうささやいた。
里美は注いであったシャンディーガフを一気に飲み干し、グラスを置いた勢いで店員呼び出しボタンを押した。出汁巻卵を50個注文すると、頰をほんのり赤らめ私の方へ向き直った。
里美と会うのは実に4年振りだった。
専門学校を卒業してすぐ、中国の税関で彼氏が射殺され(乾燥大麻の持ち込みが原因だった)軽度の鬱を患った私は、自宅に引きこもり、気の合う友人たちとのSNSを通じての交流等を心の依代にして生きていた。不思議なもので、面識の有無に関わらず、文字を通じての会話というものは、私が常々抱えていた対人関係におけるストレスや煩わしさというものを、ほとんど感じさせてはくれなかった。それはきっと、感情を文字という器に落とし込むことによって、言葉に孕む雑多な感情を、ろ過の要領で濾せていたことが大きかったのだと思う。
私という個人から放たれる、端的で的を射ない言葉というには不明瞭な、出来損ないの弾丸のような思いの数々は、前述の通り、文字というフィルターに濾す事で、初めて意思というものが宿り、本当の意味でそれは、自分自身の言葉となり得たのだった。そうして紡がれたまだまだ稚拙なアフォリズムは、気休め程度の触れ合いや、自らの保身に大いに役立った。水風船でも撫で回すように、液体に触れず、水と空気とを隔てるゴムのような、絶妙な他者との距離感は、当時の私にとって、決して失われてはならない防波堤のようなものだった。決壊してしまえば最後、私の心は、本当に壊れてしまっていたかもしれない。そんな危うさを孕んだ、脆く、儚く、それでいて、絶対的なものだった。
最近になってようやく社会復帰を果たした私は、知人を介し入社の決まった都内の小さなデザイン会社に勤め、細々とした生活を送っていた。そんな時、専門時代に仲の良かった里美から飲みのお誘いが入り、こうして意を決し外出をしてきたのだった。
プライベートでの外出なんていつ振りだろう、とふと考えた。ましてや、友達とのお出掛けなんて専門学校の頃以来じゃないだろうか。
漠然とした不安はあったけど、いざ里美と合流すると、そんな心配も杞憂に終わり、以前のよう気さくに振る舞うことができた。
「それにしても絵麻、鬱病になったって聞いて心配してたけど、意外と元気そうで安心したな。こうして会えて良かった」
「これでも、結構頑張って来てるんだよ。久し振りにお化粧もしたし、可愛い洋服も新調したし、今日の為に、美容院にも行ってきた。だから、もしも里美がよかったら、ちょっとだけ褒めてくれると、嬉しいな」
私はそう云うと、整えた毛先を指でくるくると弄った。
「そっか。ありがとうね、私のために。迷惑、じゃなかったかな」
「全然大丈夫。できれば、これからもいっぱい、誘ってほしいな」
私がえへへと笑うと、里美も白ひげのようにグラグラと笑った。
「そう言えば絵麻、与志恵ちゃんって覚えてる?」
「ああ。彼氏の金玉を切り落として、ピアスにしてたあの与志恵ちゃんだよね?あの子がどうかしたの?」
「最近出所したらしいよ」
「うそ、あと数年は出られないと思ってた」
与志恵ちゃんは専門学校時代のクラスメイトだった。
彼氏に対する暴力が凄まじく、最終的に自前のブルドーザーで彼氏を轢き潰してしまった彼女は、実刑判決の末市内の刑務所に長らく収監されていたのだった。
服役する寸前、彼女が両耳に付けた彼氏の金玉を用い界王神のモノマネをしていた光景が、昨日のことのように思い出された。
「ほら、最近私たちのライングループにも復帰したじゃん」
「え、あの『東の界王神』って与志恵ちゃんだったの?」
「そうだよ。順位はまた繰り下げだけど」
私たちのライングループでは、自分の元彼の不遇さに応じた順位付けが為されていた。
彼氏を射殺された私の順位はそれなりに上だったが、ぼったくりヘルスでおばさんに乳首を喰い千切られた里美の元彼は、悲惨度が低いとのことで結構下の順位に落ち着いていた。正直、私も正確な判断基準は分かっていない。
それに順位付けといっても、別にそれが内部の上下関係に直結するとかでは全然なく、なんなら現在このグループのリーダー格は、比較的誰に対しても分け隔てのない里美だった。
「里美は、品性は終わってるけど心は綺麗だよね」
「心が綺麗程度の褒め言葉で、前半の罵倒が帳消しになると思うなよ」
里美は私の手元にあったレッドアイを強引に奪い取り、為すがままに喉へと流し込んだ。頼んでいた出汁巻卵はまだ来ない。
「ていうか私たちのライングループ名、そろそろ変えようよ。アヘン窟なんてグループ名、かわいくないじゃない」
「こんなバグみたいなグループにかわいさを求めるなよ」
「それにしたってさ。しかもアヘン窟って、どうせ私の元彼から連想した名前でしょう。あいつがやってたのはヘロインと大麻だけで、阿片なんて使ったことないんだから」
「そういう問題じゃないでしょう。死んでから言うのもなんだけど、本当に、酷い男だったよなあいつは」
そう言った後、里美はばつが悪そうに顔をしかめた。
「気遣いありがとうね里美。私は全然平気だよ。それに、あいつが殺される前から、私はもうあいつに対して愛情なんて一切抱いてなかったし」
「あれ、そうなの」
「うん。側にいた人が急に死んじゃったから、環境の変化って言うのかな。そういうのが積み重なって、ちょっと不安定になっちゃっただけ。その時にクリアしたんだよ。里美から借りてた逆転裁判」
「なんでそこまで追い込まれるまでやらなかったの。私があれ借したの、確か相当前だったよね」
「今度返すね。いま3やってるとこ。なるほどくんがクソムカついて大好き」
「でも、よく精神を病まなかったよね。確か絵麻も、当時あいつに打たれたんだっけ」
「うん。まあ打たれたっていうより、吸引したってのが正しいかな。粉末状にした乾燥大麻を、あいつは家の加湿器の中に仕込んでやがったの。目に見える身体の異常は無かったけれど、妙に私が元気だったことと、大麻特有の匂いを友達に指摘されて、ギリギリ気付くことができた。あの匂い、メッチャ服に付くんだよね。あとは念のため、コネでタキオン処方してもらったりもしたっけな」
私がにんまりと笑い、お冷の氷を箸でクルクル弄っていた頃、頼んでいた出汁巻卵が20個ほど届いた。店員さんが「残り30個、全従業員フル稼働で出汁引いとりやす!」と言い終える前に、里美は追加でスクリュードライバーを注文した。
スクリュードライバーといえば、以前男友達が居酒屋でスクリュードライバーを頼んだ際、屈強な店員さんにSSD(スタイナー・スクリュー・ドライバー)をかけられ殺されたときのことを思い出した。
「絵麻も昔のこととか、結構引きずるタイプなんだね。ちょっとだけ意外」
「別に引きずってるわけじゃないよ。ただ、過去の自分をあんまり悪くいうと、あの頃の自分がかわいそうじゃない。今目の前に元彼が出てきたら、そりゃあまあ、ビール瓶で脳味噌を引き摺り出すだろうけど、それでも、当時彼を好きだった気持ちは本当なんだから。あの頃の、目の前の恋に全力だった自分のことを、無かったことにしたくないだけ」
「絵麻は強いよね。そういうところが。本当は、鬱病なんかじゃなかったんじゃない?ホントに一時的に、落ち込んじゃってただけだったり」
「どうだろうね。でも、鬱は心の風邪みたいなものだから、どんな人にだって、なる可能性はあるよ。私が幸運だったのは、周りに寄り添える人がいたかどうかってことだけ。それ以外は、本当に、何にも変わらないよ」
そう言うと、私は出汁巻卵だけで豪華客船のようになってしまったテーブルを眺めながら、不意に窓の外を見やった。月明かりに照らされた街に、ほんのりと雪が舞い始めていた。
【 expansion 】
私と里美はお会計を済ませたのち、里美が渇望してやまない喫煙所を求め、寒空の下をふらふらと彷徨っていた。タバコを切らせた里美が「イケメンのシケモクはどこだ」と繰り返し呟き、ついには四つん這いになって探し始めたので、痺れを切らした私は見かけたコンビニでショートピースをひとつ、里美に買い与えた。
「絵麻は、タバコはもうやめたんだっけ」
「うん。元来そんなに吸う方じゃなかったからね。ホントにたまに、お酒の席で吸ってたくらいで。今は全然吸わなくなっちゃった」
街中の雑居ビルの側面に、非常階段が蔓のように張り付いていた。夜景を見渡せるそこの踊り場に腰を下ろし、里美はショートピースを一本取り出し口に咥えた。一度の吸引で一本を吸い尽くす驚異的な肺活量を見せつけた里美は、不意に足元を眺め、呟く。
「あれ、あそこにいるの、与志恵ちゃんじゃない?」
「ブッ壊れ女?」
「ほら、あそこ」
路地裏の、スナックか何かの勝手口の側、そこの階段に腰を下ろし、何かをごそごそと漁るゴスロリ姿の女性がいた。暗がりでよく見えなかったが、それは確かに与志恵ちゃんだった。その隣には、ホームレスだろうか、見窄らしい身なりの男性が、悲しそうな表情で彼女を見つめていた。
「与志恵ちゃん」
与志恵ちゃんは一言「げへ」と呟くと、私と里美の方を見やった。斜視を患っているのだろうか、彼女の眼球は、左右の黒目が別々の方向を向いている。私たちに言葉を掛けるでもなく、与志恵ちゃんは、再度手元にあったズタ袋に意識を戻した。
「あんたら、この子の知り合いかい」
傍の男性が、私たちに向けそう言う。近くで見ると随分と高身長だった。
「そうですが、あの、与志恵は」
「そうか、この子の友達か。この子は、悪いがもうダメだ」
そう言うと、男性は与志恵ちゃんの首に手を回し、勢いよく締め上げた。
「ちょ、ちょっと!何するんですか!」
与志恵ちゃんは、驚くほど無抵抗だった。男性が首から手を離すと、過呼吸気味に再度、ズタ袋の中身を漁り始めた。
「俺はまあ、殺し屋みたいなものでね。こいつの親に、この子を、なるべく苦しまないように殺してくれって頼まれてる。こいつが執着してるこの袋の中身、なんだかわかるか?」
与志恵ちゃんは、上着の中から注射器のようなものを取り出した。ズタ袋の中から出てきた透明がかった結晶を、か細い指で乱雑に磨り潰していく。磨り潰された結晶に唾液を垂らし、ライターで炙ると、それを持っていた注射器で、覚束ない手つきで吸い取った。
「あれはクリスタルだ。この女は、末期のシャブ中なんだよ」
注射器を腕に刺そうとした与志恵ちゃんの動きが、一瞬静止した。見ると、彼女の左腕には既に何十本もの注射跡が出来上がっており、めぼしい血管は残されていなかった。彼女は仕方ないといった風に、大口を開け舌の付け根に針をねじ込んだ。
「ふう」
「与志恵ちゃん」
私が彼女の名前を呼ぶのと同時だった。男性は、仕切り直すように与志恵ちゃんの首を掴み、彼女の頭を一回転させた。頸骨を砕かれた彼女は、まるで人形か何かのように、静かに地面に崩れ落ちた。
あまりに突発的な出来事だったためか、私と里美は、しばらく言葉を発せず、ただただその場に立ち尽くした。
「あ……」
「脊髄を轢断した。痛みを感じる暇もなかったはずだ」
「なにも、殺すこと」
「この国にはな、手厚くシャブ中を矯正してくれるような場所なんてないんだ。ましてここまでの末期じゃ、刑務所に突っ込んだところで、生きて出てこれる保証もない。シャブ中には、離脱という言葉はないんだよ。あるとすればそれは、せめて苦痛のないように、こうして葬ってやることだけなんだ」
「それでも」
「ほら、見てみろ。この子の顔を」
与志恵の死体は、驚くほど綺麗な顔をしていた。
まるで憑き物が落ちたように、年相応の、女の子の安らかな寝顔がそこにはあった。だが、寸前まで確かに脈を打っていた静かな心臓は、もう動いてはいなかった。
酩酊を引っ提げ、悪魔が私の耳元で囁いている。
悪い夢はもう終わりだね。名残惜しいけど、どうせ、地獄に落ちることに変わりはないんだし。それなら、せいぜいダラダラと、当て所なく生きてみるのも悪くないんじゃない?
魂魄が剥がされた与志恵の身体を、その男は軽々しく持ち上げ、闇の中へと還っていった。
路地裏に残された私と里美は、雪の降りしきる空の下、ラッキーストライクを吸った。煙は、スノードームのような景色の中へ溶けていった。
「アドバルーンは、どこにも行けないよね」
「うん」
「もしかしたら与志恵も、救って欲しかったのかもしれない」
私はそう言うと、ラッキーストライクの吸い殻を持っていた灰皿へ突っ込んだ。霙のように落ちる灰を眺めながら、考えた。
「いや、救うっていうのは、ちょっと違うのかな。ただ、帰る場所が欲しかったのかも。明日になんの不安も抱かなくていいような、実家のベッドの中みたいに」
寝具を整えることをベッドメイクと言うのなら、寝具を整える目的が、居場所を作る行為なら、私も、誰かの依り代に。
「こんな私でも、なれるのかな。元彼も与志恵も、誰のことも救ってあげられず、誰かに依ってばかり生きてきた、こんな私に」
誰かのベッドメイクは、できるのかな。
「できるよ。いろんな人の痛みや苦しみを、間近で見てきた絵麻だもん。寄り添うってことは、寄り添ってるその人の喜びや悲しみも、一緒に背負うってことだもんね。絵麻は、なんのためにデザイナーになったのよ」
形を創るのがデザイナーなら、デザイナーは依り代でも在れると、里美は言ってくれた。品性は終わっているのに、彼女の言葉は、私の心をこんなにも暖かくしてくれた。
色々な人に借りを返すまで死ねないなと、私は思った。
里美が私の顔面に、ラッキーストライクのこってりとした香ばしい煙を吹きかける。黒ひげのようにゼハハと笑う彼女を眺め、やっぱりこいつの品性終わってんなって思った。
夜はまだまだ続いていた。
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