イカロスの墜落のある風景
【 僕の章 】
彼女と別れたきっかけは、今思えば些細なことだったように思う。
当時、彼女が僕に昨日購入したばかりだと言うリップライナーを見せてきた。きっと彼女は、僕に可愛いねであるとか、綺麗な色味だねとか、そう言うことを言って欲しかったのだろうけれど、何を血迷ったか、僕がそのとき言った感想は「実家で買っている犬のペニスみたい」だった。
ねえなにそれ。どういうこと。彼女が僕に詰め寄る。
「犬のペニスには、陰茎骨と呼ばれる骨が付いている。だからと言うわけではないが、そのリップライナーは形状しかり、色味しかり、堅さしかり、実家のデニーロのそれにそっくりだ。僕はいま、沸き上がるパクリ疑惑を押し殺すことで精一杯さ」
パクリじゃないし。意味わかんない。デニーロってなに。
「デニーロはうちの犬の名前さ。ロバート・デ・ニーロから取ったんだ。近所のおばちゃんはデニーロと呼ぶけど、本当はちゃんと『デ』で区切って欲しいんだよな。デ・ニーロと呼んでくれたのは後にも先にも、中学のとき引っ越してしまった隣の明美ちゃんだけなんだ」
なら明美ちゃんと付き合えば。なんだか私冷めちゃった。前から思ってたんだけど、私たち、ちょっと距離置かない?
「え、そんな。ちょっと待ってくれ」
私ね。ちょっと疲れちゃったの。君と私は、少し合わない。
「待ってくれ。明美ちゃんって言うのは、実はイグアナの名前で」
いいじゃない。イグアナでもなんでも。お似合いだと思うよ。
「ちょ、ちょっと待てってばよ。いくらなんでも、僕はそんなに見境無しじゃない。それに僕が明美ちゃんと付き合ったとして、その後どうしろって言うんだ。親元に挨拶に行くにしたって、明美ちゃんの故郷はトリニダード・トバゴ共和国だ。そもそもどのイグアナが明美ちゃんのご両親か、僕には区別できる自信が無い。みんな同じ顔に見える。トバゴまで行って無駄足を踏むのはごめんだ」
そういうとこだよ。いつも意味わかんない理屈ばっかり言って。本当に意味わかんない。もううんざりなの。イグアナが喋るわけないじゃない。イグアナが君んちの犬の名前を呼ぶの?
「バカだなあ。イグアナが喋るわけないじゃないか。バカすぎてちょっと笑っちゃう」
僕がお腹に手をやって「ギョフギョフギョフ」と言った刹那、彼女は僕の頬を強く叩いた。
痛くはなかった。だけど物凄く、切ないビンタだった。
もういい。距離も置きたくない。もう、私耐えられないよ。
相手の気持ちを汲む能力が著しく欠損している僕は、懲りずにまたギョフギョフと笑った。
彼女は僕に背を向け歩き出す。もう二度と、振り返ることはなかった。
僕はなんとなく道路沿いに立つ家の窓を見た。そこには明美ちゃんがいた。
案外かわいい顔をしてるじゃないか。さっきはバカにしてごめんね。今度一緒に散歩しような。
【 私の章 】
人を殺す夢は吉夢というけれど、僕はとてもそうは思えないんだよ。なぜなら僕の見る夢は、殺人そのものにフォーカスしていないんだ。僕はいつも夢の中で、まず誰かを殺し、その事態に対してどういう風に立ち振る舞うか。ここ一点に重きを置いているパターンが多いんだ。殺す夢が吉夢なら、死体の事後処理に右往左往する夢ってのは、いったい何夢なんだろうね。
「それも殺す夢の内に入るんじゃないの。実際、殺しちゃってるわけだし」
だけど僕はその夢を見た後、必ずえげつない規模の痔に苦しむ。ついこの間は尻から大腸が出た。
「嘘でしょ?」
嘘だよ。尻から大腸が出るわけないじゃないか。バカだなあ。バカ。
「ねえ、ブン殴ってもいい?言っておくけど、これ軽口じゃなくて本気だから」
やっ、やめてくれ。だけど痔は本当なんだ。死ぬほど苦しんで、5時間ばかり走馬灯を見てた。そのうち4時間と40分くらいは、君との楽しい思い出だった。
「残りの20分は?」
アタックオブザキラートマトでグレタが殺されるシーン。
「それも私と一緒に観た映画だから、言っちゃえば、全部私の走馬灯だったんだね。君の世界、どんだけ狭いの」
言いながら、クスクスと笑っている自分に気付く。
そうかもしれない。これでも僕は君と出会って、世界が広がったと思っていたんだけど。ああ、それはちょっと違うか。僕が気付いたのは、君に出会う前の世界の狭さだ。君に出会って、世界が広がったわけじゃない。
「同じことだと思うけど」
全然違うさ。それだけに、君とお別れしなくちゃいけないのは、とても寂しい。
「どうだろう。今なら、もしかしたら私の気持ちも変わるかもしれないよ」
そうだったらどんなに嬉しいだろう。だけど大丈夫。実は外に、新しい彼女を待たせてあるんだ。
私は喫茶店の玄関の方に目を向ける。そこには、こちらを堂々と見据えるイグアナがいた。
「かわいい彼女だね」
君の方がかわいいさ。僕はこれから、あの子とトバゴに行かなくちゃならない。彼女のご両親を探す旅が、始まるのさ。
彼はトバゴと書かれたガイドブックを取り出すと、そのうちの1ページを千切って鼻をかんだ。
「私も一緒に行こうかな。1人で探すより、2人で探したほうがいいでしょう」
ああ、そうしてくれると助かる。ここだけの話、明美ちゃんは昨日、僕の育ててたイソギンチャクをムシャムシャ食べてしまってね。内心メチャクチャムカついてたところだったんだ。正味な話、トバゴの中でもダントツで治安の悪い地域に置き去りにして来ようかと思ってた。
「私の目の黒いうちは、そんなことはさせない」
そういうと私はクスクスと笑った。彼も釣られて、ギョフギョフと笑う。
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