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自然科学は「思考・感覚」領域に拡大可能か

脳の活動を丸ごと記録できるデバイスができたと仮定する。人は何か思いついたことや感じたことを記録する時、それらを言語化・映像化して紙に書いたりするが、そんなことをせずともこのデバイスは、脳内の活動それ自体を頭に埋め込まれたチップに記録してくれるのだ。後でその記録を思い出したい時は、該当する日時を入力すれば、その時の思考・感覚を生み出した電気信号が、現在の自分の脳にあるニューラルネットワークを介して再生される。昔の自分がある特定の局面において考えたことや感じたことを、そっくりそのまま、今、ここにある自分の脳内で繰り返し体験することができるのだ。

このデバイスを利用することで、自分の頭の中のイメージを言語化・映像化する手間が省ける。言語化や映像化というプロセスは、実に厄介なもので、それらのプロセスを経ることで、元あった自分の考えや感覚は、フィルター越しの異なる形体に変換されてしまう。言語化・映像化のプロセスを経ない、生の脳内活動をそのまま記録できれば、常に生まれたり消えたりを繰り返す頭の中のイメージを、損傷なく再生することができる。

ここで、ある実験を試みる。被験者にはこのデバイスをつけてもらい、まず彼らの脳内活動を記録する。記録と同時に被験者には、彼らが考えたこと・感じたことを、文章や絵などで紙に書いてもらう。数年後再び被験者を集め、実験当時の脳内活動を、彼らの頭の中で再生する。そこで再び、その時に考えたこと・感じたことを紙に書いてもらい、数年前のものと比較する。両者は完全に一致するのであろうか。それとも全く異なる出力が得られるのであろうか。

両者が完全一致したとすると、思考や感覚は脳の活動により一意的に決定されることになる。言語化・映像化を通した表現形式の変換が行われるものの、その大元となる思考・感覚は常にある一つの状態を表現しており、それらは脳内の電気信号の流れと一対一に対応するのだ。一方、異なる出力が得られたとすると、それは、脳内の活動が本来的に複数の思考・感覚を表す状態であることを意味する。普段我々が考えること・感じることは、複数の思考・感覚の集合から抽出された観測量であり、それは脳内活動が体現する多くの状態のうち、ほんの一部でしかないのだ。人間の思考・感覚が、実にランダムで法則性がないように感じるのは、また自由意志が存在するように感じるのは、このためかもしれない。

いずれにせよ、こうしたデバイスが作られれば、自然科学で解析可能な領域が、人間の思考・感覚の範囲にまで拡大されることになるだろう。五感を用いて客観的に記述することができる学問の範囲を自然科学と定義するなら、今まで自然科学外の領域(哲学など)として扱われてきた人間の思考・感覚といった対象は、デバイスを通した実在として解析可能な自然科学になるだろう。かつてニュートンが力学則を発見し、それを元に展開された物理学が、自然界の数々の現象を説明したように、思考や感覚が自然科学の対象となった後には、それらを支配する原理・原則が提唱され、さらには「数学的に」思考・感覚を記述する理論体系が確立されるだろう。思考や感覚が形而上学的なものと同様に「観測できない」ため「認知できない」というのであれば、仮にそれらを観測するデバイスが発明されれば、それらは自然科学として扱われ、時代の大転換が生じるかもしれない。

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