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青二才



「彼」について

インターネットの海の中で彼をみつけたのは、高3のとき。撮る写真と、それから「まちづくりとコーヒー」というキャプションに惹かれて。ローカルに対する愛着を持たない私と見ている景色は違う一方、皆が首都圏に進学していくなかで、彼は地方で手を動かす数少ない戦友となっていった。

高校生の頃から、栃木のあちこちでコーヒーを淹れ、時と場と人の境界を繋いでいくのを見ていた。Hello-Coffeeという名前の、その「街角のごちゃまぜコーヒースタンド」は、私にとって彼の象徴となっている。コーヒーでまちを繋ごうとしたきっかけについては聞いていないが、「好きなものと好きな人たちとで、この土地を愛していきたい」ということは、これまでの活動で充分に伝わってきた。それほどまでに、彼を語る上でHello-Coffeeは不可欠な存在である。

ローカルと、ユースワークと

彼は、高校生の頃から大学生となった今に至るまで、ローカルにローカルで携わる / ローカルのソーシャルと向き合う、をしている人だ。
現在は、ユースワークの文脈に視点を定めながら、栃木や都内で活動している。周囲の友人たちのフィールドが、ローカルから国家へと世界へと変遷していく中、「栃木が好きだから」という理由で、今日も彼はコーヒーを淹れ、子どもたちと言葉を交わす。その姿を見ていると、場を作ることではなく、そこにいて波止場のように在り続けることが彼の使命だとさえ感じてしまう。

ポジションを取るために選択的かつ戦略的に地域を選んだのではなく、地域への愛でそこに向き合い続けていることは、ローカルに向き合うことを忌避してきた私にはあまりに眩く映る。視座やアプローチは移り変われど、ローカルにローカルで向き合い続けていることが、いまの彼が彼である所以であるように思う。

ローカルという視点とは別に、ユースワーカーとしての彼の姿もある。彼の原体験から得られるキーワードはいくつかあり、そのうち主要なファクターは以下の2つにあると感じる。
・貧困や格差といった危機の中にいる子に、正しい助けを導くこと。
・こどもたちを無闇に引っ張るのではなく、彼らの走る先にパスを出していくこと。
適性や本当に彼らが求めているものを見極めながら、ときに強いパスを自身で封じながら、下の世代に対して希望を持って対話を重ねていく。その話を彼から聴いて、ユースワークにおいて譲ってはいけないことは、こどもであっても他者の知性を舐めないことなのだと知った。


9/10、上野恩賜公園

初対面が叶った先日。ベンチで、これまでの月日をほぐすような夜風に包まれていた。話すことは山ほどあったが、伝えたいことはふたつだけだった。
Hello-Coffeeがどれほど心を揺さぶったのかを知って欲しかった、そしてそのことが、彼を守るなにかになってほしいと願って、言葉を交わした。
彼から学んだことは多いと、振り返って思う。私はローカルに向き合うことを避けてきた。割かねばならないリソースがあまりに多大であるのに、厚みと息の長さが付いてこない。殆どの場合、世襲制にはなり得ず、ひとりのプロデューサーに全て乗っかる形になる。それらが見えているのにやろうとは思えない、携わらないと決めて進んできた。
対して彼は、「この土地が好きだから」とここまで歩んできた。そうして、やさしさを理知的に分解してもたどり着けないくらい素敵な、Hello-Coffeeが生まれていた。


「ここに生まれてよかったと思えるようなまちにしていきたい。」

一度首都圏に学びに出た同世代が学部を卒業するタイミングで、行政、アカデミア、あるいはビジネスの視点から、地域を見ることは増えていくだろう。分散型社会、ビジネスにおける収益性や合理性など、さまざまな文脈でローカルは語られるが、彼は、いかにその地域の文脈を汲み、土地に愛と尊厳を持つことに意義があるかを体現している。
「将来的に出て行ってもいい。最後にここに生まれてよかったと思えるようなまち、誰もが帰ってこられるまちにしたい。」と、彼はそう願うことがさも当然であるかのように言う。ローカルに寄り添い続ける人がいる。事実として、それがある。


20歳というと、まだ人生の過渡期にある。流動的な眼差し、選択と集中、身の振り方。ライスワークも定まっていないけれど、各々が進んでゆく道の先で邂逅できたらそれが正解なのかもしれない。ハイタッチをして別れたあの日を私たちの起点として、また手を動かし続けたい。

“You say hello and I say hello!”

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