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花散らし


小学校中学年の話だ。いつ頃の事だったか、鮮明には思い出せない。うちの小学校は担任が2年ごとに変わった。それが誰だったかを考えると3年生か4年生であったことがわかる。けどそれだけだ。今も上手く思い出せない。思い出そうとすると記憶がぼやけ不確かな靄のように霧散する。

学校の帰りはいつも寄り道をしていた。友達は多い方ではなかったが、仲のいい女の子と大したことのない距離を毎日と言っていいほど二人で歩いた。彼女のことは、親友と言ってもよかっただろうか。少なくともそうだと思っている…たぶん…一方的に。

家を少し通り過ぎた公園に、若いおにいさんがいた。何歳くらいだったか。20歳から28、9歳くらいだった気がするけど、どうだろう。よく笑う好青年だった気がする。いつもくたびれたパーカーを着ていたけど、今思うとあの人は何してる人だったんだろう。大学生?ニート?よくわからない。そのおにいさんは、よく遊んでくれた。休みの日には親友とプールにも連れて行ってくれたし、彼のことはすきだったと思う。子供ながらに、いい人だなと好感を持っていた。

…あの日までは。そう、小3・小4なんて8歳か9歳。小さな子供じゃないか。そんな右も左もよく分かってない子供に進んで絡むやつが、いい人 なワケないのだ。今ならわかるのに、当時そんなことも気づかないほど愚かなクソガキであった。

で、何で喧嘩になったんだっけ?忘れた。それさえ、きっとどうでもいいことだったように思う。親友と言い合いの末、決裂しこんなことになってしまった。

「ほんとにもう友達じゃないから」

「うちもそのつもりだし」

「うちら絶交だね」

肺さえ切れそうだと感じるほどの寒い日だった。絶交が何かも知らない子供が、よく言ったものだ。そう言い残した浅はかな少女は、校門前に親友を残し一目散に駆け出した。苛立ちか、後悔か。涙で視界が歪んだ。デニムの短パンから突き出した棒切れみたいな傷だらけの脚と、ところどころ擦り切れたスニーカー、明るい紫の二回りも体より大きいジャンバーという季節感のない服装、潰れた赤いランドセルと遠くからでもひと目でわかる緑色の校帽。その背格好だけでも周りの子供たちと比べて悪い意味で異質さを感じる少女だった。走り出した足で向かった先は おにいさん の家だった。彼の家が近くにあることは知っていた。団地の寂れたアパートの一室だ。親友と一緒に遊びに行ったこともある。けれど一人で来るのは初めてだった。居るかな?とドキドキしながら少し埃を被ったドアベルを鳴らした。少しの間のあと、いつもの満面の笑みで彼は扉を開けた。

「あれ、友達は一緒じゃないの?」

と彼は不思議そうに聞いたが、寒そうな少女を快く招き入れた。散らかった部屋だった。ゴミはなかったが、とにかく物が多い。一生で買い込んだものを一つも捨てられないかのように全ての小物や家具を狭いところに押し込んだようだった。酷くゴチャついていたことだけは覚えている。

おにいさんはアップルジュースを出してくれた。オレンジジュースは嫌いだということを覚えてくれていたのだろう。椅子はない。低いテーブルの、煙たそうな絨毯の床に二人で腰を下ろした。

「今日はどうしたの」

彼はぽつりと言った。

「りかと喧嘩したの。絶交した」

りか(※偽名です。)とは親友の名前だ。

「そっか」

それ以上、何も聞かない。彼はただそっと隣に座り、頭を撫でてくれた。その優しい手にひどく不安定な心が揺れ、また涙が溢れた。

「また泣いているの?」

おにいさんは仕方ないなぁ、とクスリと笑い子供特有のぷにぷにした頬を撫でた。そして小さな顎をクイ、と少し持ち上げた。視線がかち合う。彼は酷く潤んだ目をしていたと思う。顔は何故だかぼんやりしか思い出せないのに、その目だけが鮮明に記憶に刻まれている。顔が近付く。恐怖は感じない。いや、何も分からない。やがて小さな吐息さえ顔にかかりそうな距離になり唇が合わさる。

「えっ」

少女は驚きに身を引いた。怖かったわけじゃない。今のはなんだったか?きす???その行為はさすがに子供でも知っていたが、そういうのはもっと大人になってからするものだと思っていたし、そもそも今それをされたのか?とただ仰天した。

「もういっかい」

彼はそう言って、同じことをした。今度は逃げなかった。何故か嫌ではなかったから。ただ唇が合わさる、それだけだと思っていた。柔らかいものが触れ合う感覚は決して不快ではなかった。彼は私の口を少し開けさせた。柔らかく湿ったものが入ってきた。少女はまた取り乱したが今度は逃げることは許されなかった。頭を後ろから抑えられていたから。そうか、これは舌か くらいは気づいていたと思う。混乱と少しのヒヤリとした恐怖が胃のあたりに広がったが、なにも出来ずにいた。誤魔化すように笑った。

ゆっくりと身体を倒される。ゆっくりと、後ろへ。おにいさんが床に倒された小さな細い身体に跨るような体勢になった。

「え、なに」

間抜けである意味純粋な女の子はまだ、笑っていた。新しいお遊びだと思ったのだ。カラカラと幼子らしく、笑っていた。

乾燥で少しカサついた手がジャンバーのチャックを下げ、長袖シャツの脇腹まで入ってきてもまだ笑っていた。その手は酷く熱かったが、くすぐったくて。

おにいさんは性急な動作でまだ膨らみさえない胸をまさぐった。そのいつもと違う様子に初めて本能からの恐怖がぶわっと広がるのを感じる。

「やめて」

掠れた声が出た。少女にはそれが遠くで聞こえるような感じがした。自分の声じゃないみたい。どうしてか上手く音が出せない。震えと、感じたことのない耳鳴りが年端もいかない子供を包み込む。おにいさんは何も言わない。子供らしい肩を痛いほどの強さで押さえつけ、反対の手で短パンのジッパーを下ろしその下にある下着ごと乱暴に取り払った。

いやだ、と蹴り上げようとした、逃避を試み、暴れた。叫ぼうとすると、静かに と口に手を置かれた。顔が歪むほどの力だ。もう、私は笑っていなかった。おにいさんも笑っていなかった。ただ見たことのないような恐ろしい目で、じっと私を見つめるのだ。この行為を私はまだ知らなかった。そもそも月経さえまだだ。女性には尿が出る穴以外に、子供を産むための穴があることさえふわっとしか分かっていない。これと、子供を作るということはまだ私の中では全く結びついていないのだった。

また涙が出た。今度は零れ落ちるほどぼろぼろと。大粒の涙が頬を伝って汚れた絨毯に落ちるのを感じる。目が熱い、身体も何もかも全部、酷く熱い。おにいさんは……知らない男は、自身のモノを取り出した。それがどんなものだったか覚えていない。ただそれは身体についている何かというより別の生き物か、凶器のように見えた。勃起した男性器をはっきり見たのは、初めてだ。当たり前だ。なのにそんなに覚えていないのは何故。男はそれを濡れることも知らない未だただの無意味な穴でしかない幼女の中に突き立てようとしたのだ。悲鳴を上げたかった。カサついた手は片手だけで抑えつけるのが容易なほどの折れてしまいそうな首にかかり、喉を潰されて声が出せない。目の前が血の色で染った気がした。

入っていたか、いなかったか?それはさして重要ではなかった。ただ知らない痛みと、いけないことをしてしまったから親に怒られる、よく分からないけどたぶん怒られる、という恐怖と、目の前の知らない男に対する物恐ろしさが身を貫いた。


そこからのことは実ははっきりとは思い描けないのだ。男は吐精しただろうか?今なら疑問に思う点さえ、どうにも記憶に残っていない。どうその部屋から出たか、どうやって帰ったか、そもそも歩けたのか?そんなことさえ分からないのだから。親は知らない。誰にも知られていないだろう。親友とは数日後に仲直りしたが、この一件からおにいさん と遊ぶのを何かしら理由をつけて断っていた気がする。あれ以来彼には会っていない。彼がよくいた公園を帰りに通らなくなったから、そもそもそこに居たのかは定かではないが多分居なかったと思う。

少女は誰にも知られたくない秘密を抱え、そして本当に誰に言うこともなく、その後病院に行くこともなく、数週間が過ぎた。やがて数ヶ月、一年が過ぎた。そんなことがあったにもかかわらず愚鈍で浅ましくそして純粋無垢でもある彼女は、この一件を忘れ去ったのだ。高学年に上がり、中学受験のことで忙しくなり、両親の当たりが強くなった。血のような衝撃に塗れた体験も徐々に理科や国語の難しい用語の中に消えた。

今思うとそれは、あまりに痛ましい経験を本能が心を守るために感情に、記憶に施錠をしたようなものだったのかもしれない。そのお陰で愚かで清らかな少女は、もう少しの間だけ清らかなままいられたのだろう。

重たい教科書が詰め込まれた灰色のリュックを背負い、右手にはお弁当を持って友達と駄べりながら塾の階段を上がる少女。


その心は、冬の木々の間を駆け抜けぬ風のように未だ白いままだ。このときは、まだ。




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