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教室には入れなくなったけれど、私は自由に生きている。
蝋燭の光が好きだ。
朝から晴れた日の夜は底の方からズンと冷える。放射冷却のせいだろうか? そんな日は蝋燭の火を眺めるといい。
教室に入れなくなってから、ニヶ月と少しがたった。
中学から通っている中高一貫校での最後の一年だ。
理由とか、そうゆうのはどうでもいい、明確に「何だ」とは言えない。クラスメイトに会いたいとは思わない。会うと体調が悪くなることがあるからだろうか。
しかも、この状況は「不登校」ではないらしい。それなりには登校をしているし、授業にもある程度しっかりと出席しているかららしい。
と書いたが、ここ数週間は学校にもあまり行っていない。学校に行くのが辛いのだ。吐き気や頭痛、腹痛や鬱状態になるのだから気分のいいモノではない。
ただ、すごく悲観的になっているわけでもない。この時代に生まれ遠隔でも授業が受けられる、病院での治療も受けられて、カウンセラーさんとも話をさせて頂ける状況に感謝している。薬のおかげか、家での気分の落ち込みも、かなり少なくなってきた。
誰かに強く依存したりはしていないつもりだ。そこだけはできるだけ気をつけようと、日々思っている。
カウンセラーさんなどと話す機会があると、原因を聞かれることが多い。それは、例えばクラスメイトや親との関係とか、勉強や将来への不安とかだろう。
私はいつもその質問に上手く答えることができない。将来は不安である。そんなの誰でもそうだと思う。未来が遠くまで続いているように感じるのにいつかパッと急に終わったりする。そんな状態で不安にならない人はいないだろう。
クラスメイトとの関係は良好とまでは言えないが、嫌いな人もいないし、強く敵意を向けられることもあまりない。家族とはとても仲が良いし、学校のことも嫌いではない。
勉強も、英語が壊滅的だが他のものについてはそこまで落ち込むほどの状態ではない。
辛いことは沢山あった。それは思春期という時期の問題や、学校が少し特殊なこと、自分が少し頑張ればできることが多いからだろう。でも、今までしてきた結果辛くなった選択もどれも間違ったとは思っていない。
若いから失敗するのは当たり前だと思う。経験がないこと、前例がないこと、それをすればいくらでも失敗が重なる。それを気に病んでいた時期もあったが、今ではそんなこともない。自分の成長を感じる。
ただずっとできないのは、「友達」を作ることだ。「フレンド」くらいの関係を作ることはできても、本当に友達を作ることは難しい。
友達は大事だ。すごく大事で、大切にしなくてはいけない。その分本当に大事な友達を作りたい。
今日は落ち着いている。
私と仲良くしてくれていた、クラスメイトや、先生は元気だろうか、私を忘れてしまっていないだろうか。たまにそんなことを思い寂しくなる。でも忘れられてしまったら其れも又私であり彼、彼女たちなのだ。そんなことを考える。
障害について考えもした。障害はどこにあるのか?というお話を障害者の方から聞いたことがある。障害は人と人の間にあるんだ、人と社会の間にあるんだと、私の持つ状態も一つの障害だ。
私は生まれた時点で、恵まれた人間だった。日本に生まれ、衣食住に困ったことはなく、父母の仲もよく、私のことを愛してくれる。運動もそれなりにでき、勉強もそこそこ、好奇心も旺盛で、優しい人達に囲まれて生きてきた。
私自身は周りから見ても、自分から見てもなんの障害もない。それでも皆んなと同じ様に学校に通うことができない。
世の中はきっと私のためには作られていない。私の為でも、あなたの為でもなく、「誰か」の為に作られている。だから自分とずれる所がある。噛み合わないところがある。
私たちは自由ではないのだ。鞄を持ち自由になった男がいたように縛られることで自由になる人もいる。制約の中でこそ輝く人もいる。でもそうではない人もいる。
犯罪者は「障害」を持っている。社会との間に強い隔たりを持っている。いつ自分がその立場になるかなんてわからない。被害者になるのと同じくらいには加害者になる危険をはらんで生きている。
障害とは社会とのずれ、噛み合わなさで、それが目に見えて分かると障害者と名前がつく。だから社会がそう名前を付けただけで、私たち自身がその人たちを障害者と思うかどうかは別の問題なのだ。
人を見るときに私たちは色を見るみたいにそのまま見ることができない。肩書きだとか、性別だとか名前のあるものを通して、その人を認識しようとする。手っ取り早くて簡単な方法で人を判断してしまっている。
「多様性を認める」というが、元々人は多様で世界は雑多な色をしている。いったい誰が「認める」のだろうか?私たちは目の前の人たちを認められないのだろうか?
「認められていない」人は「認めない」人を認められるのだろうか?
社会ってものと自分ってものが、一緒になってしまうのが悲しい。私はそれがどうしようもなく悲しいのだ。
学校という社会も、クラスという団体も、自分とは全然違う。それこそ、今出来上がっているこの社会も、世界も自分とは違って、自分の形に合わせられない。
そして私はその学校という社会から、クラスという団体から今やっと一歩外に出た気がする。其処はとても自由だった。
朝起きて、授業を受けるために自分の部屋を暖めて、コップに水を汲んでスマホで授業を見ながら、ノートを取る。授業はとても面白い。
昼食の時間になったらあるものでご飯を作って、家を少し片付けたり掃除をしたり、ゲームをしたり、本を読んだり、アニメを見たりして、時間になったら又授業を受ける。
終わったら1時間かけていた通学がないので、ぶらりと古本を見に行くことができる。
なんて自由なんだろう。家族が帰ってくるくらいにご飯を作って、食事が終わったら蝋燭を囲んで団欒をする。
認める、認めないが存在しない世界は自由だ。
いつか私は噛み合わなさを抱えないでいられる場所を見つけたい。一人と一人で居られる場所を見つけたい。
そして来週も、再来週も私は学校に行こうとして吐き気と頭痛を感じるんだろう。
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