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「どう死ぬか」ということから「どう生きるか」を考えてもいいのかもしれない

 わたしたちは致死率100%の世界で生きている。戦争が起きようと、ペストが流行ろうと、そして何も起きなくても。

 そんなことにふと恐怖を覚える。大事なひと、親も友達もいつか、自分もいつか、この世界からいなくなる日が来るということに。

 怖くなって、ひとりで散々泣いて、友達と話した。遺言状には何を書こうかとか、散骨してほしいねとか、そういう話をしていたら気持ちもだいぶ落ち着いた。

 ぎりぎりティーンのわたしが、そんなことを考えるなんて尚早と思われるかもしれない。だけど死はいつも隣りにいて、これは『ノルウェイの森』から得た死生観なのだけれど、死は生の対極ではないということを、いつも考えてしまう。
生まれたときから死ぬことだけは決まっていて、終わりの始まりだよねって昨日も話していた。

 誰も体験したことのない、想像しかできない「死」が怖いのは当たり前で、大切なひとが増えれば増えるほどその恐怖は大きくなって、自分に襲いかかる。普段はそこまで意識していなくても、あるとき突然深い闇の中にに振り落とされて、深く深く入り込んでしまうような感覚。
だからこそ魅了される、と言えば語弊があるかもしれないが、自分が死を掴み取った時にはもう、わたしはそこにいないんだ、という事実に力ずくで押し倒されそうになる。


 不思議で、曖昧で、届かないのにやってくるひと。
逃げられないなら、どう立ち向かうか(つまりどう生きるか)を、必死になって考えなきゃいけないのかもしれない。そしてそれこそが「生きる」っていうことなのかもなぁ。