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6. ベランダから見える


 魚男は三階の非常階段の、すぐ横の角部屋に住んでいる。

 背が高く、腕や足には太い筋肉が付いているというのに、腹回りにだけたっぷりと脂肪がついている。頭は鰯に似ている。

 月曜日には市場に出かけ、一週間分の食品を購入する。

 旧市街の中央市場まで、家から三十分ほどかけて歩く。乗り物が余り好きではないからだ。その理由は、誰も知らない。乗り物に酔いやすいのかもしれないし、機械の騒音が好きではないのかもしれない。とにかく彼は徒歩で買い物に出かけ、新鮮な野菜をはじめ、食材を山ほど抱えて帰宅する。

 彼のスタイルはシンプルだ。

 いつも質素な服装をしているが、どれも質のいい布地を使っており、物持ちが良い。大家のアスンシオンなどは、それをよく褒めてくれる。最近の若者は、物を大事にしないからねえ。魚男はたいてい黙って、曖昧に頷く。
火曜日には決まった予定は入っていないが、水曜日には決まってシーツを洗濯する。

 洗濯はこまめにすることにしているが(魚男はとてもきれい好きなのだ)、シーツは一週間に一度しか洗わない。それを入れると、洗濯機がいっぱいになってしまうからだ。

 彼のベランダは隣のビルに近いため、あまり日当たりはよくないが、角部屋なので風がよく通る。ベランダからは、河川跡地を利用した大きな公園が見渡せる。その向こう側には中世からそこに建っている、大聖堂がある。このピソは古くて小さいが、見晴らしは素晴らしい。それに、洗濯物がよく乾く。

 大抵の家事はこなせるものの、掃除はあまり好きではない。埃を何度払っても、隙間風がそれを運んで来て、空中に巻き上げてしまうからだ。同じ理由ですぐ床に砂が溜まるのが、憂鬱でもある。

 一番好きな家事は料理だ。気分よく、正しく調理するために、台所の整理整頓は全く苦にならない。ナイフは毎回、使う前にきちんと研ぐ。

 料理は好きだが、あまりレパートリーがないので、大抵オイルで焼くか煮る。それでも素材が良いのなら、それなりの味に仕上がる。そのために、食材の鮮度は非常に重要だ。

 魚男は人生において変化が必要であることを知っている。そのためたまに本を買って来て、外国の料理法を試してみることもある。インターネットのレシピには、あまり信用がない。どうせ作るなら、郷土料理や伝統的な調理法が望ましいと魚男は思っていて、そのため時に、あまり使うことのないスパイスや器具などを買ってしまい、キッチンの引き出しがごちゃごちゃになってしまう。

 缶詰も同じ理由で、時々よくわからないものを買うことがある。しかし、買っても食べ方がわからず、放置することが多い。そのうちのひとつ、高級缶詰がそろそろ賞味期限なので、開けて食べてしまわなければならない。愛情入り缶詰なんて、どう調理してよいのかわからないけれども。

 魚男は無口だ。

 人と滅多に話すことはない。だが、案外社交的であるらしい。

 例えば同じ階に住むアジア人留学生の青年はとてもシャイで、挨拶することさえいちいち躊躇って俯いてしまうというのに、魚男はいつも堂々と顔を上げている。会釈するときも、きちんと人と目を合わせ、時には紳士的に、帽子のつばを持ち上げてみせたりするお茶目さもある。

 木曜日には必ず、下町の会館で行われるチェス教室に顔を出す。

 教室は基本的に退職した老人たちへ開かれているものだが、魚男が混ざっていても誰も咎めることはしない。意外とゲームに強い。が、熟考が多いので、公式戦には不向きだ。

 チェスの仲間とはたまに飲みに行く。大抵、教室が終わった後なので、まだ夕方も早い時刻である。老人たちは酒豪だが、夜が早いので必然的にそうなる。

 昔からある酒屋の、立ち飲みになっているカウンターが彼らの特等席だ(立ち飲みなのに、老人たちにはパイプ椅子の使用が許される)。各々、並んでいる量り売りの、ワインやシェリーの樽から、コップ一杯分を注いでもらう。魚男はいつも、ポートワインを小さなグラスに半分だけ飲む。つまみはオリーブ、ナッツ、そこにおいてある足から、削いだ生ハムを時々。

 老人たちはいつも同じ話題――古き良き時代の昔話を好む。魚男はその以前を懐かしみつつ、現代への批判を程よく孕んだ話を聞くのが好きだ。結局のところ、愚痴が言える状況は、ある意味で現状が満たされていることに繋がると思う。

 土曜日は、午前中だけ仕事をする。

 午後には手紙を書くことにしている。

 人の手に渡る物だから、紙は文具屋で一枚売りしているアイボリー色の、手触りの良いものを選ぶ。インクは気分によって変える。いろんな色のインクつぼが、引き出しの小箱の中に規則正しく並んでいるが、空色だけは持っていない。空色で手紙を書くだなんて真似を、魚男はけしてしない。

 窓際のテーブルに座り、紙と万年筆・インクつぼを並べ、さて何を書こうかと、魚男は顔を上げる。

 ガラスの向こうでは木枯らしが吹いていて、きっと肌にしみるような寒さだろう。乾燥が気になってあまり暖房はつけないが、常に湯沸かし器がついているので、家の中は十分に温かい。そうすればおまけに、いつでも温かいお茶を飲むことができる。

 薄暗い町の、斜め向こうのビルに、クリスマスのイルミネーションを飾った一室が見える。電飾はレインボーカラーが点滅するタイプの、ありきたりでなんの特色もないものだったが、魚男の最近のお気に入りだ。

 イスに腰かけて、静かにその明かりを眺める。

 それは赤から黄色、緑から紫へと変化する。その不自然な鮮やかさを、魚男は飽きることなく見つめている。クリスマスにベランダを飾り付けることは、珍しいことでもなんでもない。だが、それに至るまでの経緯に思いを馳せると、そこに好ましい何かを見つけることができるような気がして、魚男は人知れず良い気分に浸る。

 そして日曜。

 魚男は何もしない。古風なところがある彼にとって、安息日に働くことは冒涜のように思われるからだ。なので、散歩をしたり、本を読んだりして時間をつぶす。時に例の留学生と映画を見にいくこともある。毎週のようには教会に行かないので、結構時間が余ってしまう。

 当然、料理もしない。この日、魚男が食べるのは、そのまま口に入れることができる、パンとチーズ、果物くらいだ。

 月曜日が市場に出かける日となったのには、そういうことも関係がある。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。