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16.旅の土産に

 夏、期末試験が終わった直後から行方不明になっていた友人から、連絡をもらった。
 夏休みからそろそろ冬休みも始まらんとする今までずっと、旅行へ行っていたのだそうだ。土産を渡したいから、すぐにでも会いたいという。
 放浪好きなのは知っていたが、思っていたよりも度が過ぎていたようだ。
 外遊を楽しみにしすぎて、家を空けることを誰にも伝えて忘れてしまったのだそうだ。友人どころか家族も彼女の旅出を知らず、「たった数ヶ月で」帰ってきてみれば捜索願いが出ていて驚いた、と電話口でのんきに笑っている。
 一風変わった友人なのである。
 大学に入って知り合ったばかり、共に過ごした日は浅いが、その強烈な個性はよく知っているつもりだった。風向きが悪いので登校しないという欠席理由を始め、朝から夕方まで空き教室で架空の講義を受け続ける姿が目撃されるなど、面白い噂が絶えない。
「どこに行ってたの?」
「あちこち。空港へ行って、次に出る飛行機に乗ることにしてたから」
 駅前のチェーンストア型パン屋で、わたしたちは朝食を食べた。
 いつもなら、外食の選択は大学のカフェテリア一択なのだが(早くて安くてまずいけれど、何時間居座っても何も言われない)、期末テスト期間で閉まっているのだから、仕方がない。でも代わりにコーヒーは上等だし、朝も早いので客も少ない。イスだって合成皮で膝置き付きだ。
 ほぼ半年振りにあった友人は、日焼けするでもなく痩せるでも太るでもなく、相変わらずひょろっと色白かった。
 アイルランドへ行き、シリアへ飛び、エジプトを訪れた後ポーランドに行ったらストライキをやっていたので、そこから乗れたバスでドイツへ向かい、路銀が尽きたのでヒッチハイクして帰ってきたのだそうだ。大人しい顔をして存外、大胆でたくましい。
「で、これお土産」
 クロワッサンとコーヒーの並ぶ質素なテーブルの上にボトルを置いて、友人はにっこりと笑った。
 ボトルの大きさを、いつもどのように例えたらいいのか迷う。
 ぼくの感覚からすれば、それははちみつの瓶くらいだ。だが以前アメリカの留学生と話したら、あちらではジャムやナッツバターの瓶が一リットルくらいのもあると言っていた。彼らにとって、ならばこれは小瓶ということになる。普通のペットボトルを、縮めて太らせたと言ったら万人も理解できるだろうか。
 そんなどうでもいいことをぼんやり考えて瓶を回してみたら、ドイツ語ときゅうりのピクルスの絵のラベルが現れた。
「それ、結構おいしかった」
 友人が笑う。
 だが貰ったピクルスの瓶に、きゅうりは入っていない。
 瓶の三分の一くらい、何か白っぽいものが溜まっている。ところどころ薄い茶色の粒が混ざっていた。液体というには粘度があり、振っても動かない。ガラス面から、内部は空胞なのがわかる。ハチの巣や、菌類の粘液を連想させる。
 一見すると汚らしく、実際横を通った店のウェイトレス兼レジ係が、顔をしかめてそれを睨んだ。
 ぼくは多少料理をするので、それがなんなのか、すぐにわかった。
「酵母?」
 パンを作るにあたって最も簡単に発酵させるには、市販のインスタントイーストというものを使う。
 これはイースト菌を培養してそれだけを取り出したもので、だから雑菌もなく安全にパン生地がよく膨らむ。だが実をいうと、イースト菌はどこにでも存在している。だからそれをうまく増やしてやれば、製菓に利用することも可能なのだ。
 自然に増やしたイーストは自家製酵母と言い、果物や穀物から作ることが多い。寒い時期は発酵しにくいと聞いていたが、受け取ったイーストはかなり元気だ。
 友人はコーヒーカップを持ち上げて、頷いた。
「エジプトのパンの露店で分けてもらったの。あれ、露店というのかしら。道端に絨毯を敷いて、その横で石を焼いて、パンを作ってたわ。なんでも、スフィンクスの鼻がある時代から継いできたパン種なんですってよ」
 好きでしょ、そういうの。友人は上目遣いにぼくを見て、片目を瞑った。
 料理は嫌いではないが、特別得意なわけでもない。ただ生来不器用であるが故に凝り性のぼくは、一つの料理をうまくなるまで何度も繰り返して作ってしまう。それが彼女には、料理が趣味だと思われたらしかった。
 だがまあ、酵母を貰ったからには、パン作りに手を出すのもやぶさかではない。
 ぼくは礼を述べ、瓶に鼻を近づけてみた。締りが甘いらしく、ほのかにアルコールの匂いが漏れている。ちょっと不思議なにおいだった。
 これは正確には元種と呼ばれるパンの元で、使った分だけ小麦粉(できれば全粒粉)と同量の水を足していく必要がある。使わない場合でも時々かき回して、砂糖やはちみつを与えて延命しなければいけないらしい。
「三日に一度は混ぜないとだめよ。おばあさんは時々、ヨーグルトを混ぜろって。でも先代はビールや野菜の摺り下ろしなんかを混ぜてたらしいから、わたしはその時ある餌をあげてたけど」
 何をやっていたのか、怖くて聞けなかった。そしてパンの配合に説明がないのは、自分で調べろということらしい。
「みんなに酵母をあげるの?」
 友人の足元に置いてある紙袋の中に、いくつも同じような瓶が入っているのが見えて、つい尋ねる。盗み見を咎めるでもなく、友人はいいえ、とのんびりと答え、紙袋を持ち上げた。
「これはお土産じゃないし、ちょっと違うの」
 自分用だという瓶は三本あり、ぼくにくれた酵母よりも黄色っぽかったり緑っぽかったり、不穏な色をしていた。怪しいと思って見るせいだろうか、緩く蠢いているような気さえする。
「こっちがシリアの魑魅で、こっちがアウシュビッツの魍魎よ」
「…なに?」
「だから、こっちが戦地跡で採取した魑魅で、元収容所の焼却炉で見つけた魍魎がこれよ」
 ヒトがたくさん死んだところで、良く採れるの。友人はごく普通の顔で、当たり前のことのようにそう言った。
 そう、と返事をする他に、ぼくに何ができただろう。
 ぼくと友人の間には、机しかない。その上のコーヒーはすでに冷めかけて、クロワッサンの剥がれた皮が、皿に残っているばかりなのだ。店内に流れるのは、クリスマスキャロル。そのどれもがぼくの困惑に知らん顔をしている。
「それでそのナントカは、コレクションか何かなの?」
 しょうがなく訊ねると、ぼくの顔を覗き込んで、友人は鼻の上に皺を寄せた。おもしろがっている。
「食べるのよ。わたしもパンを焼いてみようと思って」
 そうして発酵させたパン種は伸びがよく、人によってはクセが強く感じられるが、複雑なうまみがあるのだそうだ。なんだか身体に悪そうだと思った。でも止めたところで「高温で焼くんだから大丈夫よ」とにべもない。
「楽しみだわ、どんな味かしら」
 あまりに嬉しそうな顔で友人がそう呟いたので、僕はうっかり、ちょっと分けて貰おうかと思ってしまった。
 パン屋のウェイトレスが裏の工房から、木箱を抱えてきた。
 その中で焼きたてのパンたちは、ぱりぱりと音を立て、おいしそうな匂いをふりまいている。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。