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17.ガラス窓のドールハウス

 僕の職場はカムデンの方にあって、そこへ行くまでにアビーロードを通る。
 そう、ビートルズの横断歩道がある、あのアビー通りだ。
 写真ではなんとなく知ってはいたけれど、その世代ではないので、長いことそれに気がつかなかった。たまたま同僚がかけていたラジオからペニーレーンが流れて話題に上がり、それで教えてもらったのだ。
 指摘された後も、場所を特定するまで時間がかかった。
 なんせ、人通りが少ない閑静な住宅街の、同じような歩道の一つなのだ。グループの名前を冠した音楽スタジオが近くにあったのでそうかな、と思っただけで、実をいうと未だに確信はない。
 元々音楽に興味がなく、賑やかしにラジオをかけるのがせいぜいの僕だから、それで構わないのだ。一応は、簡単な関連事項も調べてみた。なぜかというと、「知識はどれだけあっても、例え自分の興味がないものに関してであっても無駄にはならない」と恩師に教わったからで、まったくの至言だと思っている。
 ビートルズに関する事柄は僕の仕事や生活に今のところ役に立つ気配はないが、散策したアビー通り周辺には、少しだけ詳しくなった。袋小路に花屋があること、西洋トチノミが植わっているのを知っていることが、役立つ日が来るかもしれない。少なくとも愛着は湧いた。「歩いて通勤しています」ではなく、「アビーロードを通って来ています」と言うようになった程度には。
 ところで、例の横断歩道の近くに、マンションがある。
 周囲の建物より比較的新しいもので、道路の反対側は教会だ。だからというわけではないだろうが、通りに面するすべてがガラス張りになっている。
 ベランダというには広すぎる上にどこにも窓として開く部分がなく、床はフローリングがスタンダードだった。あえて別の言い方をするならそれはサンルームだが、ちょっと説明が難しい。僕はこれを初めて認識したとき、両面ガラスの中に砂を詰めた子ども用サイエンスキットを思い出した。アリの巣を観察するために、暴露を強いる不自然。
 しかしながら、それで生活が丸見えというわけではない。
 それぞれの部屋、壁の中央よりやや右に、大きなフランス窓のような、ドアのようなものが備え付けてあるのだ。もちろん時と場所によってはそれが開いていることもあるが、基本的にはその一部屋だけが、見えるようになっている。四階建て三戸ずつで十二に区切られた、ほぼ正方形のコレクションボックスみたいに。
 ドアはそれぞれに違い、置かれた家財にも個性が現れている。
 二階の右にある家には、レンガ風の壁に白い木枠のドアがついている。これは全体的にアンティークな印象で、レースをかけた小机があり、揺り椅子と小さなカウチがある。いつも古風なドレスの老嬢がそこに座っていて、本を読んだり編み物をしたり時間を潰している。
 その上の四階には漆喰で塗られた質素な壁があり、大きなポスターが二枚ある。これは時々変わって、今は誰でも知っているSF映画の絵が貼られている。トレーニング台に乗せられた自転車があり、それが向いている隣との境界の壁に、スクリーンがかけてある。パイプイスが一脚、その下に機能的な部屋にそぐわない籐製のかご。ここには若いカップルが住んでいるらしく、ぽっちゃりした女性が映画を見ながらサイクリングをしたり、小柄ながらかなり筋肉質な男性が、かごから出した雑誌を見ながら、反対の手でダンベルを上げ下げしていたりする。
 また子どものおもちゃが転がる薄黄緑色の部屋にはペットがいて、時々通行人に付いてしっぽを振りながら、左右に歩き回っていた。
 どの部屋にも、人生というものが詰まっている。
 唯一共通なのは、洗濯物が干されていないことだろうか。
 都市部では景観のため、外に決められたもの以外の私物をおいては行けないところもあるというので、それと同じなのかもしれない。例え禁止されていなくても、通行人へ全くあからさまなこの場所に衣類を晒す度胸は、僕だったらないし。
 僕は勤務時間の関係で、ここを朝八時ちょっと過ぎと、四時頃に通り過ぎる。
 だいたいいつも、半分くらいの住人がガラス張りの部屋にいて、自由に時間を過ごしているのを見ることができる。
 人の住居を覗くのは悪趣味だとわかっているのだが、こうした人生の一幕に、ついつい目を向けてしまう。内向的である多くの人間がそうであるように、同じくらい他人のことが気になるのだ。特に帰り道はゆるい下り坂なので、自然と視線が誘導されることもある。
 本音を晒すなら、高級住宅に暮らす人々が羨ましい。
 ガラス面はいつも曇りも見当たらないほど整備され、高い板塀の隙間に、程よく枝を透いた木々が彼らの世界を守っている。その穏やかさが妬ましくもあり、それでいて、自分がそうなりたいというよりは、その状況がずっと続いてほしいと願う。

 そんなふうに数ヶ月観察を続けた結果、各家の背景が見えるようになった。
 まるで応接室のように本棚を備えている家の壮年の男性は、在宅の仕事をしている。電話をしながらいつもメモを取っているのだ。僕の予想では学者か何か、少なくとも文系ではあるはずだ。
 件の古風な老婦人の、連れ合いはどうやら亡くなっているらしく、見たことがない。そこだけタイムスリップしたような部屋で、機器をいじっている姿は見たことがなかった。古き良き時代に育ち、それを現代でも続けている。
 子どもがいる家は、いつもごちゃごちゃしている。生活感溢れる歪んだクローゼットが移動させられていたり、ぱんぱんのゴミ袋が山積み担っていることもある。頻繁に物が入れ替わるのは、改装でもしているからなのだろう。子どもは見たことないが、一次避難させられた家具の隙間を、すっかり顔見知りになった愛玩動物がよくウロウロしていた。
 その中で一つ、地階の真ん中の家だけが、よくわからない。
 まず、電気がついているのを見たことがない。
 僕の通勤時間は季節や天気によっては、夜のように暗い。日照時間が短いのだ。
 ガラス部屋にはコンセントがある限りだが、そこにランプを繋げたり、改装してシャンデリアを設置したり、どの部屋にも光源はある。
 でも、地階の部屋にはそれがない。
 というか、その部屋には何もおいてない。湿気でくたびれたダンボールが、出入り口の横に二つだけ積んである限りなのだ。ゴミも見えないが、埃などはここからではわからない。ただ前のペンキを剥がし落としたらしき歪な壁が、事実がどうあれ、そこを不潔に見せていた。
 この部屋は角度と生け垣の高さの関係で、帰宅時には中が見えない。
 行きがけにのみ様子を伺うことができるが、先述の通り、ガラスで暴露されている部分には、箱以外に見るべきものはない。
 ドアがあったところには、蝶番の一部を残して、穴が空いている。
 そこから奥が見えるのだが、何故かどんな晴れた日でも見通しが効かず、シルエットから裸電球が一つぶら下がり、あとは大量の箱が室内に所狭しと積まれているらしいことがわかるのみだった。
 双璧となる箱の間に、男が立っている。
 骨格から、多分男だと思う。これが、いつ見ても居る。狭い室内に仁王立ちになり、ただ起立しているのだ。
 もちろん僕がアビーロードを通り過ぎるのは一瞬のことだ。
 慌てている場合もあるし、寝不足でぼんやりしている日もある。だからたまたま、毎回いつも男が同じところに立っているところを、見ているだけかもしれない。そんな気が、しているだけかもしれない。変な理論を言っている自覚はある。けれど、確かにその可能性はゼロではない。
 一度帰り道に、わざわざ振り返って見たことがある。
 秋深い夕方で、霧のような雨に、時々大粒の水滴が混ざる、おかしな天気の日だった。何がきっかけでそうしようと思い立ったのか、今でもよくわからない。気候のせいかもしれなかった。
 やっぱり男はそこにいて、手をだらりと落として立っていた。
 多分、疲れて見間違えたのだ。僕は無理やりそう納得し、足早にその場を去った。まっすぐ家に戻る気分になれず、近所のコーヒーショップでココアを一杯、飲んでから帰ったのを覚えている。
 それからは、あまりその部屋は見ないようにした。

 クリスマスも近づき、オフィスのドアに同僚がリースを飾った。
 柊がたっぷり編み込んであるクラシックなもので、金のリボンが巻きつけられていた。母親が作ったけれど、家の玄関には大きすぎたので持ってきたという。
 社長がそれを見てひどく気に入り、せっかくだからもっと飾りをつけようと言い出した。費用は社長が出し、せっかくだから数人が担当して競うことになって、玄関やレセプションなどいくつかの場所のうち、僕にはキッチン兼休憩室のくじが当たった。
 それで午後は早退し、買い物をしてまた職場へ戻って飾りをつけた(ちなみに大きなリボンをガーラントにしてキャンディやチョコレートを貼り付けたもので、かなりの高評価が貰えた。つまみ食いが横行し、クリスマス前にリボンだけになってしまったが)。手間取ったので、その日はいつもより遅くなってしまった。
 満足のいく仕事ができて、僕はいつもの帰路を気分良く歩いていた。
 商店街ならばいざしらず、辺鄙な住宅街のアビーロードにクリスマスの電飾はなく、街頭は少なくオレンジ色で、距離感を掴むのが難しかった。
 でも帰宅を急ぐ理由はないし、残業という僕にとっての非日常からの高揚も相まって、その状況も楽しんでいた。 
 不意に、一際暗い一画から、何人か出てきて道を遮った。
 建物に明かりがなく、出入り口が奥まって隠れていたため、僕には突然人が現れたように見えた。道路に出てきた人物は後方に顔を向けていたため、歩行者に気が付かなかった。僕の方でも、その人が止まってくれると理由もなく信じて避けなかった。
 結果それが手遅れになるまで互いの勢いは衰えず、その人の肩に僕の鼻がぶつかった。
 僕は顔を押さえてうずくまり、被害が少なかったその人も驚いて仰け反る。いくつかの顔が、向こう側から覗くのを感じた。
「あら。まあ、観客さんじゃないの」
 そういったのはハリのある声だった。
 涙で潤んだ目を凝らして見ると、ランニングウェアの女性がニコニコと笑っている。服装も表情も若々しいが、暗闇の補正がなければかなり高齢であるように思えた。そういう知人に、心当たりがない。名前が出てこなくて、額から冷や汗が吹き出た。
 ぶつかった人がティッシュを差し出し、その顔を見てあっと声が漏れる。その人ならはっきりと、瞬時に誰かわかった。ガラス張りマンションの、在宅仕事の学者先生だ。
 小柄な印象だったが僕より少し背が高いくらいで、あとはいつも見ているそのままの姿だった。今朝見たシャツとタータンベストの上に、キャメルのカシミールコートを羽織っている。清潔に整えられた口ひげの下は、近くから見ると思ったより若い。
 それで気がついたのだが、声をかけてくれた女性は、あの儚げな未亡人なのだ。
 僕はちょっと混乱した。目の前の老淑女は自分のショッキングパープルのジャージを見下ろして可笑しそうに、僕へ美しく皺の乗った顔を向ける。
 鼻血が止まるまでの間、話を聞いてみるとこういうことだった。
 このマンションは、実は廃ビルなのだそうだ。
 元は高級住宅だったらしい。消費主義の反動から極端にアートへ傾倒した時代のもので、安全性や利便が乏しく、近年になって住居認可が降りず遺棄された。
 今は表通りから上手く目隠ししてあるのでわからないが、裏にはサイロをガラス張りにしたようなレクリエーションルーム、一階から三階を繋ぐ長いスロープ、ボイラー室の熱を利用して植物を育てるための階段状の温室、などが捨てられたままになっているという。「危ないから、そこには入ってはいけないんですけれどね」と学者先生は僕の鼻血を拭いつつ言った。この人は、本当はカウンセラーなのだそうだ。
「居住はだめなんすけど、アート作品としてなら、人を入れていいんすよ。インスタレーションだっけか、こう、体験型なんとかいう」
 表通りに面した方だけ整え、人が生活しているように見せている。
 アートと名前がつけてあるが、人を雇って演技させているのは土地のオーナーで、ここを上手く売っ払うのが目的だ。なんせ高級住宅街の真ん中、生半可な値段では売れない上に取り壊しの金策も方法も簡単ではないから、この場所自体をできるだけ魅力的に見せたいという訳。
 説明してくれた小柄のボディビルダーは、実際には刺青師だそうで、小遣い稼ぎにここに入っているという。人通りが多くなる日中、ずっとではないが規定内に誰かがいる必要があるので、彼の場合は筋トレ器具を自由にしていい代わりに、時々友人と交代してもらっているのだそうだ。
「ちょいズルかもしんないけど、おれは早くここに入ったからね。まだテーマをつける前だったんよ。『若い男が住んでて、よく彼女が変わる』ってことで、大目に見てもらってて」
 刺青師は趣味で鍛えた立派な身体を縮めて、プレイボーイ設定へちょっと照れた顔をした。老婦人はほほほ、と笑う。
「あたくしのテーマは『未亡人』で、ちょこちょこ細かな設定があるわね。でも家具は前の住人が残していったものだから、持ち出しもないし楽よ」
 彼女は退職後の夫と顔を突き合わせるだけの生活に飽きて、知人の紹介で仕事を得たそうだ。「だって夫は、毎日チェスをしに公民館なんだもの」と悪びれもなく付け加える。カウンセラーの先生は設定(大学院の植物分類を学ぶ書生)が本業と似ているので、いっそ同時に仕事をしているらしい。「逆にリアリティが出ると、褒めてもらいましてね」
 ガラス張りの部屋以外に、ビルの中はがらんどうなのだそうだ。
 二階真ん中の部屋だけは裏側も整っていて、トイレや休憩所として共同キッチンがある。あとはセットで、全てまがい物なのだ。見せるための生活で、現実はそこに挟まれない。
 僕はちょっと呆気にとられた。
「それだけやっても寂しい通りだし、あんまり見てくれる人もいないのよ。あなたは毎日通るから、あたくしたちの上観客だねって、話したことがあって……」
「あの、一階に箱の部屋があるじゃないですか?」
 老婦人の言葉を不躾にも遮って、僕は解決すべき疑問を口にする。
「箱?」
 五時を過ぎたら帰宅して良いことになっていて、だいたいこの時間に全員で帰るという。後から出てきて会話に加わった、四階左の衣装持ちの妙齢の女性(役)の不思議そうな顔を見て、僕の背中の毛が逆立った。
 一瞬、聞くべきではなかったかもしれない、と後悔する。
「あ、そりゃ俺だわ」
 ドアから出てきたばかりの男性が手を上げた。
 人気がないのをいいことに、結構な声量で話をしていたのに気が付かなかった。「階段から出てすぐ、話が聞こえたよ」と、男は人懐こく苦笑した。僕はぎこちない作り笑いを返す。
 血の気が引いた指先が冷たいまま、声をかけてきた中年の男性をただ見つめた。どのくらい立ち話をしているのか、ブーツに飛んできた枯れ葉がひっかかり、ばたばたと踊っている。
 箱の男役は、あっけらかんと種明かしを続けた。
「なんだか知らないけど、そういう役でね。立ちん坊は辛いから、三人くらい持ち回りでやってますよ。あれね、見えないけど後ろ向いてっから、隠れてテレビが見放題なんですわ」
 一緒に話を聞き、僕の無礼に気分を害した様子もなく、いつもの粛々とした顔はどこへやら、入れ歯を見せて『未亡人』が意外そうに笑う。
「あらあ、そうだったの? だから休憩室でも会わないのねえ。話をしないと何役でどうしているかわからないから、今まで知らなくって」 
「わたしはあの家も、気になりますけどね、ほら子ども、見たことないじゃないですか」
 衣装持役の女性と未亡人、二人で顔を合わせ、ちょっと声を潜める。祖母と孫ほど実年齢は違うだろうに、表情は同じ双子みたいだ。イメージの差異に、僕はなかなか立ち直ることができない。
 よく通る濁声で、箱男役が自明の論を披露する。
「ありゃ設定でしょ。本当に子どもを雇うと、法律がちょっと面倒だって聞きますよ」
「あそこの人も、会ったことないですねえ。ひょっとしたらいないのかな? 物を動かすのも見たことないし」
「わたしもないです。バスタブとかどうしていたんでしょうね、通れないでしょ? ドアからじゃ」
 口々に喋りだすも、僕には誰の言葉も聞こえなかった。
 いつの間にか、建物から明かりがすべて消えている。僕が到着したときもあまり人が残っていなかったから、これで全員が終業であるらしい。明かりが届かないので、二階から上の部屋の様子はもうわからない。
 でも、つい先程見た気がする。気配はあった。だって、あんなに気安くしていたのだ。
 でも思い出そうとしてみれば、あれが大型だったか小型だったか、色がどうでどんな毛の長さだったか、曖昧でわからなくなってしまう。
 僕は和気あいあいと話し込む役者たちへ、おずおずと再び疑問を投げかける。
「犬は?」
「犬?」
 訝しげな視線が集まり、僕は先程自分の中で絶たれた何かが、微かに息を吹き返すのを感じる。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。