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25.おまけ 魔女の食卓3:ネコと和解せよ

 昨晩サバトへ行かなかったのを、伯母たちに咎められた。
 正確には、伯母のように世話を見てもらっている、魔女の大先輩たちにだ。石苔、烈火、そして藍染の魔女。彼女たちは仲が良く、たいていいつも一緒に行動する。
 全ての魔女がある分野に精通していて、腕が良いとふたつ名を貰える。わたしは半人前なので無名なのだけれど、母が十三人の魔女の弟子をしていたので、そういう名のしれたひとたちと知り合いでいる。
 平々凡々とロンドンの片隅で、大きな猫ではない、でも似たようなものと暮らしている。
 魔女としては半人前だけど時々集会に招待され、欠席すると伯母たちからこうやって、お小言の電話がかかってくる。
「だって、もうそんな年じゃないもの。それは、伯母さまたちは主宰なんだから、しょうがないじゃない。え? そういうタイプのサバトにも行かないわ。そうそう、もうプロポーションに自信がないの」
 からかっているのだろうが、わたしはもう面倒になっておざなりな返事をする。母の代から使っている黒電話。しかし相手は最新のスマートフォンでのスピーカー通話なので、行儀の悪いわたしへ、烈火の魔女が遠くからお叱りの声を挟んだ。藍染のおばから始まった会話だが、きっとテーブルの上に電話をおいて囲っているのだ。入り混じって四人で言葉を交わしている。
 一年の最後の月、二十四の日暮れから二十五の明け方にかけて、伝統的に魔女はサバトを開く。
 でも乱交パーティーだの呪いの成就だの、もうするような時代ではない。知り合いで集まって美味しいご飯を食べて飲む、ごく普通の忘年会だ。でもこの三人の知り合いは各界の偉い人たちばかりなので、わたしのような若輩にとって、あまり楽しい集まりにならない。
「オコネル坊やが残念がってたわよ、あの子は昔っから、おちびさんの一番のファンだから」
 石苔の魔女が電話の向こうでクスクス笑い、きっと昔のことを思い出しているな、とわたしは思う。オコネルは気の弱い子だったので、遊びにくるとだいたいわたしの後をついて回ったものだ。あの頃わたしはまだ小さかったけれど、でも、伯母の外見はそんなに今と変わらなかった。でも、本人的には懐かしく年を感じさせる変化が、あるのかもしれない。
「坊やが好きなのは、ママのレシピで作ったフルーツケーキでしょ。送ってあげるわよ。どうせあの子が去年くれた、ブランデーで作ったんだもの」
 オコネルは、実はもう還暦を過ぎているので、坊やという年ではない。どの省かは忘れたけれど大臣をしていて、国会中継などでよく苦虫をつぶしたような顔を晒している。
 昔から甘いものが好きで、パウンドを一本平らげ吐いたこともあった。だから機会があれば手土産には洋酒漬けフルーツ入のケーキを持参するし、あの子からのお返しはいつもお酒だ。去年のお歳暮もブランデーで、レミーなんとかいう箱入りのを二つくれた。一本は飲んで、残りは今年用のミンスミートを漬けたのだ。
 それで昨日の午前を費やして、焼いた菓子がキッチンテーブルに山積みになっている。
「実は顔だけは出すつもりだったから、ケーキはあるの。でも行く時間がなかったのよ。昨日は本当に大変で」
 愚痴を言うのは良くないけれど、昨晩は本当に大変だったのだ。
 しばらく前、大きな犬が店に迷い込んできたことがあった。
 ロンドンの真ん中とはいえ、入り口の分かりづらいこんな場所に入ってくることは、人でも動物でも珍しいことだった。事情があると思って食べ物を分けてあげたのだが、縄張りを荒らされた我が家の猫とケンカになり、その仲介で風邪を引いた。
 ロロッカをわたしは猫と呼んでいるけれど、実は猫ではなくて猫っぽい生き物だ。
 体長が尻尾を含め二メートル近くあって、一つ大きな目を持っているが、これは黒く長い毛で全身が覆われているので、人はその異常に気が付かない。たぶん気まぐれに人類を滅亡させることもできると思うけれど、普段は大人しいわたしの相棒だった。
 それで慣れているので気が付かなかったけれど、迷い犬もただの犬ではなかったのだ。
 ロロッカと比べて遜色ない大きさであることに、まずおかしいと思うべきだった。彼はブラックハウンドで、もちろん犬ではなく、妖精に近いものだ。死神犬とも呼ばれることもある。黒い体色に、赤い目が特徴だ。
「ハウンド? 誰か死んだの?」 
 電話の向こうで、さして心配そうでもなく、藍染の魔女が会話に割って入ってくる。
 伯母たちは三人ともまだパーティをしたホテルに居て、遅い朝食を部屋で食べているところだ。きっと窓が大きくて、今日みたいな曇り空でも明るい場所なんだろうな、とふと思う。テーブルの上には、トラディショナルなブリティッシュブレックファースト。目玉焼きとソーセージ、豆と焼きトマト……。
 想像しながら、相手には見えないとわかっているのに、わたしは首を振る。
「死んでないわ、まだ。この間のお返しに、来てくれたみたいなの」
 そう、この間迷い込んだ時は妙に憔悴していると思ったが、群れの力関係が変わり権力争いが起こってのことだったらしい。ハウンドも群れを作り、一番相応しいものがその主となる。ロロッカにつけられたにしてはやけに生傷が多いと、治療中も不思議だった。でもわたしは黙って彼に、止血に化膿避け、それから防御の守りをつけてやった。
 そのかいがあってかは知らないが、あのブラックハウンドは無事、新しいリーダーになったらしい。昨晩やってきた時には、数匹のハウンドを従えていた。
 それにロロッカが、また気分を害したのだ。
 一緒にパーティーへ出かける予定ではなかったけれど、わたしはめったに出歩かないので、たまの一人での留守番を楽しみにしていたのだ。気ままに過ごすつもりで、自分用に焼かせたフルーツケーキには特別たっぷりチョコレートが混ぜ込むよう頼んであったし、好物のりんご酒も水皿の横に用意してあった。
 二十四日を祝うための飾りがうちにも一応あり、それは柳の裸枝に乾パンで作った人形を逆さ吊りにしただけのものなのだが、これも十二時を過ぎたら食べていいことになっていて、ロロッカはこれを毎年楽しみにしていた。
 その浮き立った気分の時に突然、先日引き分けた屈辱の相手がやってきたのだ。諍いとなっても、しょうがないことではある。
 強大な獣が苛立ちを隠そうともせず庭に出てきたので、当然犬たちも応戦態勢となる。
 リーダーほどではないが他も犬としては尋常ではなく大きく、庭で争われると大惨事は目に見えていた。その上、家の中からは気が付かなかったけれど、お土産のつもりか鹿を引きずってきていたので、軌跡には血溜まりが残っていたのだ。もちろん、こちらは隠蔽などされていないから、誰の目にも触れられる。
 当然の如く通報され、猫と犬の群れが一触即発という場面に、警察官がやってきてしまった。
 更に運が悪かったのは、警察がうちの店の事情を知らない新人だったことだ。功名心に燃えてかたった一人、突入してきたときは驚いた。
 それはそれは、ひどい恐慌に陥った。多分、大きな犬が怖いヒトだったのだ(ロロはこんなにかわいいから、「バケモノ」と呼ぶなら犬の方だろう)。錯乱して叫ぶだけなら良かったけれど、わたしにまでむやみに警棒を振り回したせいで、ロロッカもハウンドたちもこぞって警官に噛み付こうとし、それを止めるのがまた一苦労だった。
 最終的には呪いで警官を眠らせ、猫を寝室に、犬を庭の納屋に押し込めた。
 別の警官がやってきて(このひとも魔女に理解がなかった)、保護区の鹿を密猟した罪がどうとか言い始め、結局わたしは知り合いの警察署長を呼び出して、事態に収拾をつけなければならなかった。休暇中だったその子には悪かったけれど、公務執行妨害だの、道路の上を二十キロ近く引きずられた鹿の血の跡を消せなんて、言われなくて良かったと胸をなでおろす。
 そんな騒ぎの末またいつの間にか、ハウンドたちはいなくなっていた。焼いてあったいくつかのうち、よりにもよってロロッカ用のケーキと共に。
 ロロッカが怒り心頭だったけれどもう宥める気力が残っておらず、わたしはとりあえず鹿を納屋に吊るして血抜きをしたあと、全部放置して寝た。寝室の外で暴れる音は、聞かなかったことにして。
 それで起きてみれば、家の中はめちゃくちゃに引っ掻き回された後だった。
「だから、本当いうと今も困ってるの。ロロは顔を見せてくれなくて」
 大方、そのへんの影の中に隠れているのだろう。まだ怒っているのか、それとも癇癪を起こした気恥ずかしさからか、またあるいは掃除をするのが嫌だからかは知らないが。
 わたしは食器という食器が砕かれ床に撒かれたキッチンと、引き裂かれて綿と木片の塊になったソファに柳が突き刺さった居間の間、爪とぎで床板がささくれ立つ廊下で一人、受話器を持ったまま途方に暮れている。

「ロロー、休憩するからケーキを食べない?」
 一応声をかけてみたが、猫はまだ機嫌が悪いようだった。
 物音一つしない室内にひとり、しょうがないのでインスタントのコーヒーを飲む。
 我が家では紅茶はいつも茶葉から淹れ、コーヒーはインチキの粉を使う。母がそうだったのだ。挽いたコーヒー豆を煮立てるのに時間がかかるし、さらにその上澄みだけをどんなに上手く啜っても舌にカスが触るので、コーヒーは我が家では不人気なのだ。
 インスタントならそんなことはないが、でも地獄のように熱くて苦くて甘い、ちょっぴりしかないこの飲み物を、わたしは苦手だった。カフェインが入ってなかったら、まず飲まない。でも今はその効果が必要なので仕方なく飲む。母が知ったら怒るだけれど、薄くお湯で割って、ミルクをたっぷり入れた。
 一応、台所はなんとか片付いた。
 割れたものを全部、袋に入れて出しただけだが。こういうとき、絵本みたいにホウキが勝手に動いて掃除してくれたらいいのに、と思う。でも現実にはそのためにまず魂を作成し、物質に定着させなければならない。ぽっと制作することなどできない、数日かかる重労働だ。その場合の構造式は……と一応考え始めて、すぐに止める。諦めて全部、手で捨てた方が絶対に早い。
 ゴミを室外に引きずり出すだけなら、半刻もせず終わることができよう。
「ねえ、やり直ししましょう。ケーキはブランデークリームとチョコチップのせて、ローストでも食べるの。蜂蜜酒も開けるわ、好きでしょ?」
 静まり返った家の中、張り上げたお誘いの声が虚しくこだまする。見回してふと、ひとつだけ見逃した飾りの首縊り人形が、洗濯機の下に挟まってるのを見つける。もう拾うのも面倒だし、勝手に自分で歩いて、出ていって欲しいと思った。
 昨日何十本も焼いたフルーツケーキは、とりあえずカウンターへ積んである。ロロッカ用の特別製ではないけれど、量だけはいくらでも食べさせてやれる。チョコやソースなりを足せば、猫の好みに近づくだろう。
 本当ならこの日にはパイを焼くのが伝統だけれど、冷凍庫にはとっておきの人魚肉が残っている。一向に返事はないが、好物の匂いで釣ればロロッカも昨日のことを忘れて出てくるだろう。久しぶりに腕によりをかけて、料理を振る舞おうではないか。普段食事を忘れては、空腹を酒でごまかしているわたしからすれば、大盤振る舞いの歓待だ。
「とにかく窮屈な思いをさせてるのだから、ご機嫌だけは損ねないように」
 と繰り返す、猫を崇拝する三人の伯母たちほど、この状況に危機は感じていない。一緒に暮らしているのだから、このくらいの不仲はよくあることだろう。けれど、やっぱり同居人としては、早めに猫との関係を修復しておきたい。一緒に暮らしているのだから。
 わたしは早々と休憩を切り上げ、まずはローストの仕込みをする。塩をすり込みながら、オーブンを使う間にどこから掃除をするか、脳内で算段を始める。

 しかしながら、人生は思い通りには行かないものだ。
 料理の準備は整った。家の中もがらんどうになったが、まあ、住居としての体裁は取り戻したと思う。ロロッカもさすがに店舗には手をつけなかったらしく、サンルームを改装して造ったそこは無事だったので、そこですることはない。
 でも家中のホコリが隙間風に押されて低くなった店の床に集まっていたので、ドアを開けて換気をすることにした。
 これがいけなかった。
「マリエッタ、いるかい」
 とやってきたのは郵便局の知り合いで、『閉店』なのに勝手に入ってきた。もうかれこれ三十年くらい付き合いがあるので、遠慮がない。歳を取って今はデスクワークばかりだそうだが、配達員時代はここでサボる常連だったのだ。
 昨日の騒ぎを聞いて、様子を見に来てくれたという。そのついでに、二日酔いの呪いと、タバコを買いにきたというから良い面の皮をしている。どちらが口実なのやら、わたしは素直に礼が言えない。
「孫がここの担当だろう。でも配達のついでに買い物を頼んでも、規則違反だと言って買ってきてくれなくてな」
 そんな言い訳をする。最近配達に来るようになった新人が、彼の孫とは初耳だったので、わたしはちょっと目を見張った。
 件の配達員はひどく人見知りをする子で、ほとんど話をしたことがない。でもとても親切で、重いものは店内まで運び入れてくれるので好印象を抱いている。飄々とした祖父とは、あんまり似ていない。
「真面目、結構じゃないの。あなたもあんまり喫むと、すぐ死ぬわよ」
 わたしはカウンターに潜り込み、ストッカーに商品を探す。我ながら甘いとは思うけれど、ローストが焼き上がるまでまだ時間があることだし、客一人面倒を見てもロロの罰は当たらないだろう。繁華な通りから無視される寂れた小売店、このくらいのサービスはしなければ。
「あなた銘柄、タワー オブ ファイアだった?」
「いや、もう幽霊を吸うような年じゃないよ。大人しくクイーン メリーだ。シガレットだよ、電子はどうも好かん」
 カルダモンとベルガモットの香り付きのそれは、店に二箱しか残っていなかった。一箱分の硬化を受け取り「袋男さんからのプレゼントよ」と残りの一つは進呈する。程よく隙間の空いた棚には、他の銘柄のタバコも余り残っていない。母がいないので自家消費も販売も少なくなったから、補充していなかったのだ。
「でも、また調合してくれるんだろう?」
 ごま塩頭の郵便局員は、哀れな声を装う。
 これを機にタバコ販売はやめてもいいけれど、長年のお得意さまの頼みだ。それに呪い付きのものは、本当ならオックスフォードサーカスの専門店に行って、三倍くらいの値段を払わないと手に入らない。近場で買えて胃痛避けの効果が多少弱めの、わたしの呪いタバコでも良いと言われれば、是も否もなかった。
「いい子にしてるならね」
 でもこれからは、注文毎に巻くことも視野にいれよう、と思った。レシピごとに箱を用意しておくのは場所を取るから。それに、わたしはどうも不器用で、紙と葉の整形が得意ではない。
 ローストが焼ける頃合いなので客を追い出し、出ていくついでにゴミを出してくれるというのでお願いして、わたしはキッチンへ戻った。
 オーブンを止め、肉の塊に串を刺す。透明な肉汁が溢れ中まで火が通ってるのを確認し、アルミ箔に包んで寝かせる。
 影という影に手を突っ込んで見たけれどロロッカはまだ見つからず、しょうがなく諦めた。供物が足りないのなら、パンにトマトを乗せるか、と思ったところではたと気がつく。店の鍵を締め忘れたかもしれない。
 図ったようなタイミングで、出入り口のドアにつけられたベルが大きく鳴った。
「マリエッター。なんか食べさせてえー」
 鍵は開いていたけれど、閉店のタブがかけられてはいたのだ。それなのに誰も彼もずかずかと、住居に入ってくる。どうして今日、こんな客ばかりくるのだろう。まあ、メリッサは身内みたいなものだから、こんな訪問が当たり前ではあるのだけれど。
 呪いが入隅にはかけられているので、一般客はほとんど入って来ず、店にくるのは知り合いばかりだ。でもちゃんとした魔女は、普通だったら連絡してからやってくる。それぞれが扱う魔法や呪いは機密も多いし、講式そのものを秘匿するひとも多いための配慮だ。
 メリッサは独り立ちしてから日が浅いので、そういう気遣いに疎い。それに二つ名を貰う前の魔女たち、詰まるところの下っ端は上役にお使いであちこち向かわされて、それぞれからの扱いがひどいことも重なると、いちいち挨拶さえしなくなる。だから行儀の悪い中間管理職的な魔女は多いが、メリッサは特に気が短く、守りの呪いを力ずくで踏み破って入ってくるから、余計質が悪かった。
「勝手に入っちゃだめでしょ」
 一応は口にしてみたが、小言が立て板に水なのはわかっていた。返事さえしないメリッサはケーキ山の隙間に物を出すだけ出したごちゃごちゃのキッチンカウンターにへばりついて「ごはん食べたい」を繰り返す。
「月番終わったとこなの。お腹すいた」
 月番とは担当地区で超自然的な問題が起こった時、ヒトだけでは対処できない場合、問題解決に出向く魔女のことだ。通常一月毎で見回り番は決まっているが、特別な時期ーー夏至とか年末年始とかーーは勤務が不規則で、人数も増やされたりする。薄給できつい、新人魔女の仕事だ。
 誰もが通る道だから、わたしももちろん苦労した。でも喉元を過ぎればなんとやらで、義務もなく家でぬくぬく過しているだけの自分に(今年は違ったが) わたしは罪悪感を抱く。
「ミンス肉のスモークとローストの端っこなら、サンドイッチにしてあげる」
 罪滅ぼしの提案、だが人魚のヒレはだめだ。一番美味しいそこは、今日はロロッカの分。
「わ、なに人魚? やった。もちろん、端っこで十分」
 腰が低いわりに、サンドイッチパンはトーストにしろと注文がつく。「添えるりんごとチェシャは、わたしが取ってくる」と言い終わるより早く、メリッサは足取りも軽く庭へ向かった。材料を収穫して持ってくるのなら、あとは切って挟むくらいはしてあげるけど、とそれでもわたしは口を尖らせる。
「あなたね、でも昨日はなんで来なかったのよ」
 トーストにバターとマスタードを塗り、わたしは苦情を言う。
 昨晩の騒ぎも、警察より早く魔女が来ていたら、もう少し早く片付いたかもしれない。手早く戻ってチェシャを洗い、勢いよく振って水を飛ばすメリッサは、顔色ひとつ変えずわたしに視線を向けた。それを見てなぜか頭の片隅に、道路に残った血痕が思い浮かぶ。
「そういえば、納屋に鹿が吊るしっぱなしだわ」
「鹿? ハウンドじゃなかった? でも昨日は妖精事件があったし、その筋のあたしが行くしかなかったから」
 ここの件は害意はなかったし、大丈夫なんでしょ、と言われれば確かに、ヒトが加入して来なければ、話はこじれずに済んだかもしれない
 ……否、だめだった、とわたしは天井を仰ぐ。ロロッカはもう、あのハウンドを敵と認定してしまった。最近、とみに獣らしい短慮が目立つのは、わたしがロロを「猫」という言霊で縛っているからだろうか。出て行かないように、家に住み着く動物のように。
「一介の魔女には、荷が重いわ」
 わたしの呟きにメリッサは、ちょっと変な顔を返す。
 出来上がったサンドイッチを大きく一口齧り取って、カウンターの隅を陣取ったメリッサは、昨晩の騒動を大仰に語る。わたしはブランデーソース作りで残った洋酒を舐めながら、それを聞いた。
 チェンジリングについて、面白い事例だったのだそうだ。でも実を言うと、わたしは半分くらい話を聞き流していた。わたしは妖精に興味はないし、今はうちの猫のことのほうが気になる。子どもが苦手な猫なので、メリッサがいる間は出てこないのだ。
「リリーローズも連れていけばよかった。まさか死神犬をなんとかしろ、なんて言えないでしょ。その間は待機所で、お留守番させてたから」
 メリッサは学校を出たばかりという、その修行中の弟子の話を始める。若い子は総じてそうなのだが、魔女の話題はロンドンの天気みたいに移ろいやすい。職業訓練、魔女の流行り、やけに長い名前の見習いが送ってきた、スペインのクリスマス菓子について。
「おばあさまが直系なんですって、ルールーはそっちで修行中。良いわよねえ、地中海バカンス」
 それはちょっと意外だった。わたしたちの時代は、南ではなく北、スコットランドやアイルランドでの研修が「伝統的」かつ人気だった。観光地で修行なんて、古い頭のわたしには想像もつかない。
「魔女も国際化が進んだものね」
「様式を変えられないならね、あとは生活の場所くらいしか選べないのよ」
 偉大な先達を母に持ち、保守派に近い顔をしながら何を考えているのか、年若い魔女はちょっと皮肉な表情を浮かべた。
 こんな時、人生の先輩として、何か言ってやるべきなのかもしれない。
 でもわたしは、ただ黙ってメリッサの顔を見た。何かに秀でたわけでもなく、なんとなくだらだらと末席を汚している老人は、口を閉じて聞き役に回った方が良い。相手はそれでも、話したければ話すだろうし、そうじゃなければただお茶を淹れて出した方が、世間はよっぽど上手く回る。
 サンドイッチに添えた流感よけのココアをぐっと一息に煽って、メリッサはうふふ、と笑う。
 二階の寝室、ベッドの下の影がざわついた気配がした。

「こんにちは。いらっしゃいますか」
 もちろん、雑貨屋の入り口からの声だ。そうだった、鍵を忘れていたのだった。客が来ることも稀な店だから、施錠へ気が回らなくてうっかりしていた。
 廊下に転がったりんご(庭の老木から歓待を受けて、メリッサは抱えきれないほどりんごを施され、キッチンへの道の途中でいくつも落としてきたのだ)につまづきつつ店内へ顔を出すと、トドのような巨体の初老の紳士が、入り口を塞ぎ立っていた。
 運転手らしき侍従は、外から様子を伺っている。お仕着せを着ているだけでは寒かろうと気の毒に思っていると、紳士は眼光鋭くわたしを見た。手にはラッピングの施された小さな箱、足元には大きなプラスチックボトル。
 お久しぶりです、とオコネルが恭しく挨拶する。
「こちら、マスカットの蒸留酒です。人気があるということで、ダンサーの形をしたボトルに、ノンアルコールのものが入っております」
 わたしは返事をしない。
「……そしてこちらには工場で一番古いものを、原酒で5パイント用意させました」
「良い子ね」
 取っ手におざなりなリボンが飾られている無骨なボトルを受け取り、ノンアルコールの方はレジ台に放置する。明らかにプレゼント用ではない無骨な、閉まりの甘いペットボトルの蓋から、甘い果実の匂いがした。
 昨晩サバトに参加していたオコネルは同じホテルに宿泊しており、今朝顔を合わせた魔女の伯母たちからわたしの事情を聞いたらしい。「手がいるなら」と運転手を連れてきてくれたという。
 わたしは気持ちだけありがたく受け取り、侍従の上着に保温の呪いをかけて車に戻らせた。今日は祭日だからどうかわからないけれど、普段なら表通りはマーケットがある時間帯、駐車禁止なのだ。
 メリッサが勝手に作った二個目のサンドイッチ(タルタルソースしか挟まっていない)を手に店へ顔を出し、話し始めた坊やにも何か温かい飲みものでも出すかどうか思案する。結論が出るよりも早く再びドアが開いて、また別の紳士が店に現れた。
「アーサー?」
 予期せぬ来客の顔を見て、わたしはちょっと面食らう。アーサーも親が政治家で十三人の魔女と付き合いがあり、小さい頃から知っている。でも、オコネルとは公的な場所で、同席になったことはない。でっぷりして貫禄のあるオコネルと、昔から細長くて理詰めのアーサーは、見た目も政党も対極なのだ。
 ただし、一つだけ共通点があることを、わたしは知っている。
 いや、今この状況と行動も、共通しているかもしれない。アーサーは二人、背広の若い男の人を外に待たせ、手には紙袋を下げていた。この子の場合、毎年ドライフルーツやナッツを持ってくる。
「……ケーキを貰いにきたのね?」
 腰に手を置いて尋ねると、少し恥ずかしそうに両手を持ち上げて、坊やたちは頷いた。
 アーサーもチェリー入ケーキが大好きで、焼く前の生地を味見しすぎて、お腹を壊したことがある。しかも、ローティーンになるまで何度も。わたしは呆れてため息をつき、これだけ愛されるママのケーキレシピが羨ましく、また誇りにも思った。
 とはいえ、この光景を誰かに見られてはまずい。店の呪いはあくまで無意識に影響するものであって、政治家のスキャンダルを付け狙うひとへの、不可侵の結界は張ってないのだ。「記事になる前にもみ消せば良いので」と物騒なことを言うアーサーと、メリッサにサンドイッチを分けてもらって食べている呑気なオコネルを前に、わたしの方が慌ててしまう。またタイミングが悪いことに、別の誰かが敷地に入ってきた気配が感じられた。もうっ、とわたしは鼻息荒く指図する。
「アーサー、あなたは倉庫へ行って、チェリーボンボンを探してからいきなさい。オコネルはキッチンにまっすぐ行って、今のうちに帰るの。カウンターのケーキは、三本まで持って帰っていいから」
 それだとアーサーばかりがずるい、と部外者のメリッサが訴え、「あたしはそこのレープクーヘンがほしい」とねだるので、三人には陳列のキャンディもチョコレートも、好きに取らせて追い出した。どうせ昨日までの季節物だ、棚の片付けが減るのは正直助かる。
 それでも、
「あなたたち、今年はケーキのコインが当たらない呪いを、かけましたからね」
 とわたしが叫ぶと、裏口と倉庫へ向かうそれぞれが、おかしそうに声を上げた。まったく、五十年前なら震え上がった脅し文句なのに。いつの間にふてぶてしくなったのかしら。
 アーサーのお付きにもキャンディケーンをあげてこちらは表から退出させると、入れ替わりに入店してきた客があった。
 男は黒服とすれ違うとき、おどおどした目を伏せた。
 こちらは全く見覚えのない男のひとで、中年に入るか入らないか、不健康そうなハリのない皮膚はしかし、最近天気が良い場所へ行ったらしく、程よく焼けている。わたしは人魚のローストのことを思い出す。ロロッカはまだ出てこない。
 午後になり、外では小雨が降り始めていたらしい。フードを被った男の人はなんだか焦って店内を見回し、くたびれたダンボールを黙ってわたしに差し出した。切手はなく、青いボールペンで住所と、わたしの名前が書いてある。差出人名はないけれど、筆の跡で誰からかはすぐにわかった。
 変な話なのですけれど、と男の人は震える唇を動かす。
「私は先程まで、バルセロナにいたはずなんです。そこであの、知人、に、勧められたグエル公園に居たんです。明日帰ってくる予定だったのですが」
 そこで会った女に頼まれごとをされて、靴を貰った。それを履いて一歩試してみたら、気がつくとここにいたというのだ。
 わたしは改めてため息をつく。男の説明が支離滅裂だからではない。相変わらず、めちゃくちゃなことをする母に対してだ。普通、怪しい初対面の女のお願いなんて聞くヒトはいない。強制だか思考低下だか、違法呪いを使ったのだ。
 当然、混乱が収まらない男の人は、気の毒に目に涙を浮かべている。
「これ、娘に渡してほしいって言われたんです。え? でも、そんな。どうみてもあのひとは三十には届かない……」
「クリスマスくじ、買いました?」
 わたしは無理やり話を切る。男の人は半泣きの顔にちょっと疑問符を浮かべ、素直にも買っていません、と答えた。
 箱を受け取り、これは両手に留める。箱はまだ温かく、日向の匂いがした。
「そう。じゃあ、もう買わなくていいですよ」
 普通の七リーグ靴でも結構な額にはなる。彼が履いてきたのは母が作った特別製で、倍の距離を移動できる。たぶん、売ればくじ一等が当たったくらいにはなるだろう。
 あとで誰か、信頼できる買い手を紹介してあげよう、と思った。これは、久しぶりに母の無事を知らせてくれた分。もちろんそんなことでは迷惑料が足りないから、置いてきた荷物と、入管のあれこれはなんとかさせよう。
 わたしの説明が悪かったのか、男の人はまだ腑に落ちない顔をしている。でも、パニックは収まったようだった。納得するにはまだ時間がかかるだろうから、とりあえず無視してダンボールを開ける。何が入っているかは知らないが、母は彼に荷物を預けたのだ。ならば、見られて困るものは入っていないのだろう。
 箱の中には、クッキー缶が入っていた。缶はホリディ用の、パンが二斤ほど余裕で入る大きなブリキ製で、封が切られているのでもちろん空だ。段ボールとの間に圧縮した空気が詰めてある。母にしてはかなり気を使った梱包に、内容物はかなり貴重か、割れやすいか、その両方のどれかだとわかる。
 赤い塗装の蓋を開けると、真綿の中で少女が眠っていた。小さな缶の中で、体を丸めている。真冬の氷点下近いこの気温では、薄すぎる水色のワンピース。
「あら」
 薄暗い蛍光灯の明かりでも、密閉されたブリキ缶からでは急な眩しさに感じるらしく、黒曜石の瞳を薄く開き乾いた声で
「ごきげんよう」
 と言った。
 男の人はわたしの背後からこれを見て、ぎょっとして息を飲んだ。
 そう、多くの人が驚くのだ。
 乳児ほどしかないこの子は、わたしが造った。
 前実験で魂が定着してしまい、人としてはかなり小さな姿で、この世に生まれ落ちてしまった。人によっては、この子をひととして認識しない。でも彼女はその障害にも負けず、自由に考え動き、好きな場所へ行く。
「どうしたの」
 久しぶりの再会は嬉しいけれど、予期しなかった帰省に、わたしはむしろ不安になった。人造とはいえ、身体には人間程度の自己修正機能はある。それにこの子は器用だ。自分で直せないような不調は、よっぽどのことだった。
 家出して連絡のない母と違い、几帳面なこの子は、旅先で必ずはがきをくれた。けれど改めて思い出せば、ずっとそれを受け取っていなかった気がする。いつからだろう。確かルーマニアから南下すると報告されてそのままで、それなら来月で三年くらい。
「南アフリカで、呪術師の弓に打たれたんです。フォーミュラーに破損はないのですが、多分A層からDプラへの接触に異常があって、方向感覚が失われてしまいまして」
 客の前で中身を暴くのは娘に申し訳ないが、緊急事態なので缶の中で寝かせたまま背中を開いて確かめる。中にはなぜか煤が溜まっていて、おかげで弓矢で開けられた脇腹の穴がよく見えた。心臓部分の核に問題なく、人の肝臓に当たる部位に、傷がついてちょっと式が崩れていた。
「バオバブの灰が塗ってあったのね。大丈夫、すぐ直るわ」
 ほっとして、自然と笑みが溢れた。箱の中の娘は一見重症だが、つい先日までは普通に歩くことができていたらしい。「おばあさまと運良く出会えたのですが、直すのはお母さまが良かろうと仰って」ということだから、どうやら母がちょっと弄って、悪化させてしまったらしい。なるほど、体内の煤は母のタバコのものか。
 いつの間にかすぐ横に、ロロッカがやってきていた。もう怒ってはいない。箱を覗き込んでいる。わたしはちょっと猫の額を掻いて、
「ロロ、ゾーイをおねがいね」
 とカウンター裏に二人を誘導した。ブリキ缶を包み込むように座り、ロロッカは『妹』に鼻を押し付けている。
「その猫も喋るんですか?」
 すっかり存在を忘れていた男の人が少し離れて、けれど予想ほど怯えも驚きもしておらず、ただじっとカウンターの中を覗き込んでいる。わたしはバーの上に転がるキャンディケーンを一つ手渡し、自分にも一本、折って口に入れる。「いいえ」の言葉と共に、ペパーミントが香った。「中身は話せるはずなんですけれど」
 わたしが造った猫の皮に住んでいるのは、ものすごく長生きで、叡智と屈強さを併せ持つ『何か』だが、外殻の構造が悪いのかその気がないのか、わたしとは一言も会話をしたことがない。でも長い付き合いなので、言いたいことはなんとなくわかる。猫とは、本来そういうものだ。
 そうなんですか、と男の人は残念そうでもなく口ごもる。
「私の魚は、喋るんです」
 照れくさそうに、ちょっぴり自慢げに男の人が目を上げ、わたしはそれを好ましく思う。

 魚の男の人を、表通りまで見送った。
 祝日で休みだというのに妙に人の入りが多いので、もう門から閉めてしまうことにしたのだ。
 靴を片手に提供した長靴を履いて、男の人は静かな街に消えていく。
 一斉に閉店した通り、走るものがない車道。華やかに吊られた電照は、観客もなくただ無気力に点滅を繰り返している。まだ夕方と言うにも、早い時刻だというのに。
 すみません、と小さな声がする。
「無名の魔女さまのお店を、ご存知ではないですか」
 ぼんやりと風景を眺めていたら、下り坂の方向から声をかけられた。門に隔てられた反対側、ヒトの世界の耳慣れぬ声へ視線を向ける。
 きれいな女の人だった。でも、骨みたいに痩せている。倦んでいるようにも見えた。でも普通の人間が魔女を求めるにしては、落ち着いて丁寧な物言いだ。
 どうやら、著名ではない魔女を探しているらしい。
 お金がないとか人に知られたくないとか、事情がある客は時々いる。でも今日はもう疲れたし、ちょっと仕事を受けるのにめんどくさい気分だ。
「魔女をお探しなら、ウェストミンスターの窓口で相談してみると良いですよ」
 それに月番のいるところなら、若手でも専門の魔女がいて、より良い結果を得られるかもしれない。わたしは門にかけようとしていた南京錠でもって、そこまでの道を簡単に説明した。ほうきで五分、歩くなら二十分くらいの距離だ。
 少し離れて立っていた女の人は、倒れ込むように一歩前へ、つまりわたしに近寄って首を振る。
 以前にここいらの魔女へ、同じ依頼をした者がいたはずだと言う。だから、そのひとでなくてはならない。切羽詰まった声だった。訴える口調を、つい最近聞いた覚えがある。
「ああ、おもわすれの」
「ではあなたさまが、無名の」
 ずいぶんそこを強調するんだな、とわたしは苦笑した。そう言われれば、わたしを訊ねる一般客はいつも「無名の」魔女を探している。誰もがそこまで匿名性を求めていたわけではないので、奇妙なことだが。
 この人は、とても疲れているみたい。
 ヒトにとって一年で一番華やかな祭日、魔女なんかを探して彷徨う女の人の横顔に、わたしはたちまち同情する。まるで中世に吊るされた、友人たちみたいな顔色。
 正直にいうともう誰かと話をする気分ですらないのだけれど、わたしは女の人を敷地に招くことにした。
 以前の客と同じ依頼なら、直接見せる方が早い。幸いというか、ちょうどゾーイの背中は開いている。ここまでしても望むものは手に入らないとわかれば、すぐに諦めてくれるだろう。別の呪いはすぐ作れる。
 でもまずはお茶かな。道を譲って先へ通す、冷え切って凍えるその肩を見て思う。
 本当に呆れるくらい、わたしは要領が悪い。接客の間に冷めたローストは温め直さなければいけないし、これではまた、ロロッカが機嫌を悪くしてしまう。
 あっ、とわたしは声を上げる。そう言えば忘れていたけど、納屋の中に
「鹿が」
「え?」
 板塀に囲まれ、両側から茨がはみ出る暗い細道から、庭に出ようとしていた女の人が、白い顔に髪をなびかせて振り返る。


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