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09.テセウスの家

 ロンドンに来たことがある人だと、ブルー・プラークを見たことがあると思う。
 ざっくりいうと、偉人がここに住んでいましたよ、と証明する銘板のことだ。スモッグと雨の街では、この鮮やかな青がすごく目立つ。知らなくても、つい目が向いてしまうくらいに。
 例えばバス停の前にあるやつは、十八世紀の学者アレクサンダーさんが二年くらい住んでましたよ、と書いてある(何をしたアレクサンダーさんかは、知らないけど)。
 その情報から、かのマンションは築百五十年を超えているのがわかる。
 観光客の出身国によっては、それに驚くこともあるんじゃないだろうか。けど、そのくらい古い家はゴマンとある。そういう場所なんだ、ロンドンは。
 で、そういう古家でも扱いは普通の住宅だから、売られもすれば、借家になることもある。特に市内だと、古さはデメリットになることがない。逆に、割高に取引されることもあって、値段だけからでは、家の築数からくる問題などわからない。
 僕の知人なんだけど、ある女の子が家を買った。
 まだ若いのに中々優秀で、田舎から上京して仕事について数年、上手くやっていけそうだから、職場に近い住処を探してたんだ。
 借家は、シティに近いほど家賃が高い。毎月の給料のほとんどが、賃貸料に消えていく。ほんと、比喩じゃなくね。それならいっそ、と購入も視野にいれたところ、見つけたのがそのセミタッチドハウスだった。
 セミタッチドっていうのは、一見は一軒家なんだけど、玄関が違うふたつの家っていうタイプ。
 これは僕の完全な想像だけど、たぶんお屋敷を丸々ひとつじゃ売れなかったのを、分割して売ったのが起源なんじゃないかと思う。少なくともこの家はそうだ。近代的に、最初から二軒長屋として作られたものじゃない。
 古い家だとわかってはいたけど、リフォームをすることが決まっていたから、骨組みがしっかりしているならいいやってことで、細かなことは調べずに契約してしまった。
 相手がかなり高齢のご婦人だったものだから、ちょっと話が通じてないときもあって、聞けなかったってのもあるけどね。間にしっかりした弁護士を挟んでいたから、問題にならなかったんだ。
 この家の反対側は空き家で、なんと壁が崩れているとこまであった。
 僕ならちょっと不安になるところだけど、でも女の子はそう思わなかった。左側はオーナーが違うんだけど、弁護士さんはその人をよく知っていて、更地にする可能性もこぼしていたから。一軒家になれる可能性もあると期待したんだね。
 とにかく家を買って、予定通りリフォームを始めたんだけれど。知ってる人は知ってると思うけど、壁を剥がしてみたら修繕が必要な個所が増えたりするなんてざらなんだ。彼女の場合は予定より一か月長くかかって、出費も嵩んだ。
 やっとそろそろ引っ越し、という時に、弁護士さんから元オーナーが亡くなったって、連絡がきたんだって。
 もちろん、売買は済んでるから問題はない。
 でも慌ててやってきたオーナーさんの息子さんは、それが大問題だというんだ。
 あれは、幽霊屋敷だというんだね。
 老婦人は隠す気はなかったんだと思うんだけれど、それを告知せずに売った責任があるから、とりあえず話にきたんだそうだ。どうして今更、というと、たまたま色んな偶然が重なって、今までこの件について知らなかったらしい。 
 けれど、家の様相があまりにも変わっていたので、話はまた、違う方向へ転がった。
 なんせ、女の霊が渡るという玄関の階段は外されてもうない。
 リビング階段へ、変更したからだ。仮に出てきたとしても、引きずるほどの長いドレスでは、スケルトン階段の路板か手すりの間に引っかかってしまう。
 その次に出るという階上の寝室も、吹き抜けにされてなくなってしまった。
 唯一バスルームだけは図面通りの位置に残っていたはけれど、いわく付き猫足バスタブは早々に撤去されて、機能的なシャワールームでは、溺死を再現できる場所がなかった。
 ちょうどテセウスの船みたいに、幽霊が出る所をことごとく取り替えて置き換えて、もうこれは、幽霊屋敷と言えないのでは? となったんだって。
 出てくるところがないのに出現するなら、それはもう元の幽霊と同じとは言い切れない。だから、前オーナーに責任を問うのはおかしな話だ、と当の女の子が主張したんだよ。オカルトを否定しないんだけど、原理が理系なんだ、その子。
 それで結局、息子さんが少しリフォーム代を出してくれるってことになった。吹き抜けにしたのは、床板が傷んでいたせいだからって。それでも本来なら息子さんが補償することではないはずだけど、相手の気持ちの問題でもあり、女の子としても助かるから、ありがたく受け取った。
 それで、その話は終わり。
 その子が引っ越してずいぶんになるけれど、未だに幽霊の話はしたことがない。意図してではないけれど、出る所をそっくり排除してしまったんだもんね。
 いや、実をいうと、猫足のバスタブだけは裏庭にまだある。
 見せてもらったことがあるけれど、ホーロー製のちょっと小ぶりなもので、おどろおどろしい気配は一切なかった。
 今でも幽霊が沈んでいるかと尋ねると、夜中に庭など出ないので、怪奇現象が起こっているかはわからないそうだ。当然だね。
 女の子はバスタブを気に入っているそうで、余裕ができたらそこに土と蓮を入れて、ビオトープにしたいと目を輝かせていた。
 けれど、ちょっと首を傾げた後に、
「もし、まだ幽霊が出てるんだったら、金魚と同居は可哀そうかしら」
 と、でもそんなに同情的な様子はなく、言っていた。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。