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17. 冬がこないことには


「じゃあ、ちょっとボイラー室失礼します」

 企業のロゴ入りの帽子とジャケットを着た害虫駆除業者が言い、僕は頷いた。ビルの入り口にある管理人窓から出るのはちょっと面倒だったけれど、それが約束なのだから仕方がない。壁に下げてある鍵を選んで持ち、エレベーターホールへと向かう。

 それは本来ならば、アスンシオンの仕事だった。

 水漏れしたとか、ガス点検だとか、ビルに問題があると住民はまず、管理人である彼女に連絡するのが決まりだ。それが全体の問題と判断されれば管理費から修理し、そうでない場合は個人が支払うことになる。その場合でもちゃんと業者への連絡先を教えてくれるし、毎日の挨拶も感じが良く、みんなから慕われている。

 だが、そんな優秀な管理人でも、管理しきれないことはある。健康だ。彼女自身のものではない(アスンシオンは毎日五キロの散歩を欠かさない、元気なおばあさんだ)、親友のコンスエロの話だが。

 早い話が、ぎっくり腰になって入院することになった、友達の世話を焼きに行くことになったのだ。だが予定していた害虫駆除を放置するわけにもいかず、暇そうにしていた僕に、白羽の矢が立ったというわけだった。帰ってきたらケーキを焼いてくれると約束したので、その分の仕事はするつもりでいる。

 アスンシオンが焼いてくれるであろうアーモンド粉のケーキ、またはリンゴのタルト、それともチョコレートビスケットケーキへと思いを馳せながら、僕たちは地下への階段を通り、ボイラー室を目指した。

 駐車場の隅にあるその部屋に、入るのは今日が初めてだ。

 扉が錆びて開きにくかったが、それ以外はなんてことない。ただボイラーが並んでいるだけの部屋の入口に立ち、微かな落胆を感じる。昨日見たテレビドラマだったら、モンスターが飛び出してくるのに。せっかくのシチュエーション、それなのに僕の背後にはか弱い美少女ではなく、ちょっと年上の、太ったひげ男しかいない。

 機械の隅で、何か光るものが走っていった。

「ああ、やっぱりいますね。隣のビルで発生していたので、予測はしてたんですが」

 異常気象のせいなんですかねえ、街では発生しにくい害虫も出てるんですよ、今年は。

 ひげの業者は横から中を覗き込んで、何枚かカメラのシャッターを切った。サラマンダーは駆除しないと大変なことになるので、公共から補助金が出るのだそうだ。そのためには、証拠写真を提出する必要があるという。

 ふくよかな体形の割にてきぱきと、業者男は金網を組み立てた。それを持ってボイラー室に入り、火掻き棒で器用にサラマンダーを捕まえ始める。瞬きするうちに籠は害虫でいっぱいになり、ぞんざいに外に放り出された。すぐに二つ目の折り畳みかごが組み立てられ、再びサラマンダーが詰め込まれていく。

 手持無沙汰になった僕は、駐車場の隅に投げ出された金網を、しゃがんで覗き込んだ。詰め込まれて動けないのか、それとも怯えているのか、害虫たちは身じろぎ一つしない。

 近くでよくみて見ると、サラマンダーはなかなかかわいい。

 顔が丸っこくて愛嬌があるし、つぶらな目は離れていてちょっと間抜けな印象を与える。その下の、花房みたいな四つの鼻の穴から、時々煙が出ているのも愉快だ。

 そして何より、その黒くて時々赤く光る、石炭そっくりの鱗が美しい。大量にいるので、近づくと汗ばむくらいの熱を放出している。捕獲が終わったらしいひげ男が出てきて、やけどしますよ、と僕をたしなめた。

「あとは幼体だけだと思うので、ガスで始末することになります。死体は灰になってしまうのですが熱いので、そうですね、お手数ですが、三日後くらいに掃除してもらえます?」

 はい、と僕は頷いた。その頃にはアスンシオンも戻ってきているだろうが、ケーキの恩があるので、掃除くらいは手伝おう、と思った。死体があったら気味が悪いが、灰だけなら平気だ。

 しかし、と僕は足元の大量のサラマンダーを見て、ちょっとだけ哀れを催した。

「特定外来動物だから、こいつら殺処分になるんですよね」

 今年は暖冬だと思っていたら、こいつらが街を巣くっていたためだと説明されている。これから寒くなってしまうことを考えると、名残惜しいような気分だ。そうですねえ、とひげ男は眉を大げさに下げて、サラマンダーたちを見た。

「しょうがありません。火事になると危ないし、それに暖かくては、冬が来れませんから」

「冬がこないと困ることがあるんですか?」

「そりゃあ、その後に春がやってこれなくなるじゃないですか」

 ひげ男が至極当然のことを言う。

 機材を片付け、手際よく網を二段に重ねて紐でくくる。カートに固定して運びやすいようにするのを、手伝いもせずぼんやりと眺めていたのだが、ガスを散布するので扉は閉めて構わないと告げられ、慌てて鍵を取り出す。

 春か、と僕は天井を仰いで考える。

「寒くなるくらいなら、冬なんか来なくていいけどなあ」

 どちらかと言うと夏が好きな僕は、ずっと常夏だって構わない。寒いのはとにかく嫌いなのだ。ひげ男はその言葉に少し驚いて、思わずと言った風で口を開いた。

「でも、春はすごい美人ですよ」

 お客さん見たことないんですか? と食いつくように聞かれて、僕は混乱した。

「毎年、変わり目にはテレビ中継があるじゃないですか。ああ、留学生さん? そうでしたか。でもいやあ、春はとても美しい女性なんですよ。美少女、というのが正しいかな」

 なんでも、冬を超えて暖かくなると、街に春が来訪するのだそうだ。

 春は清純な、乙女の姿をしているらしい。古風で物腰が柔らかく、少したれ目なところも、ひげ兄さんの好みに合うのだそうだ。

「もちろん夏も素晴らしいですよ。活動的でいて、母性も備えている。それに、あのプロポーションでしょう? 秋は好みが分かれますけれど、おれはけっこう好きですね。ちょっと豊満な感じで、だからこその大らかな気品が立つというか」

 季節愛のこもった話を聞く限り、どの時節も素晴らしい女性ばかりではないか。どうして秋口に気が付かなかったのだろう。パソコン世代の僕の家にはテレビがないので、そのせいかもしれない。

 僕は断然、季節の変わり目が待ち遠しくなった。とりあえず冬が来るためなら、サラマンダーたちの犠牲もやむを得まい、という気分にすらなった。

「それじゃあ、冬はどんな女性なんですか?」

 質問しながらも、頭の中で想像してみる。冬……冷たい感じの、ちょっと大人な女性だろうか。北欧女性のイメージではステレオタイプすぎるかな。甘いものが好きだとか、ちょっと中身にギャップがある感じだと、とても魅力的なんだけれど……

「や、冬は男性です。冬将軍、っていうじゃないですか」

じゃあやっぱり、冬なんて来なくてもいいんだけどな。

ほら、動物愛護的な意味でもさ。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。