18.土曜日の朝、水路
何の予定もない土曜日の朝、なんとなく目が覚めて、時計をみたら四時だった。
もちろん太陽はまだ登っていない。
妙な目の冴え方に落ち着かず、カーテンから窓の外を覗いてみると、数日続いた雨は降り飽きたと見える。地面はじっとり濡れていたが、悪い天気ではなさそうだった。
わたしはジーンズに着替え、上はパジャマのままの上にコートをひっかけただけという無精な恰好で、家を出た。
通りには、誰もいない。
同じ建物が並ぶ広大な公共団地には店はなく、棟から棟への遊歩道の、電灯もところどころ切れている。
いくつかの窓からは、すでに起き出した人が点ける明かりが漏れていた。けれど冬のことなので、厚いカーテンから光が零れるだけで、中の様子はわからない。
特に他人の生活を覗く趣味はない。それに足元の水溜まりを踏まないようにするほうが重要なので、視線はほとんど、地面にくぎ付けである。
内庭を突っ切って敷地を抜け、近所の教会のグリーンスペースを歩く。
ここは芝生に覆われているが、砂利の敷かれた花壇前遊歩道と、コンクリートの自転車道の二つの道があって歩きやすい。
時々交差するので、前方に水が溜まって通れないならこちら、濡れた雑草が道に覆いかぶさっていればあちら、と移動しながら歩を進める。
うっすらと、明るくなってきた気がする。
吐いた息が白く、視界を濁らせた。
緑地を抜けて別の団地へ。そこの子どものための遊具が少し置いてあるスペースの横から、水路へと出る。
水路は運搬に使われていただけあって、ロンドン内を散策しながら移動するとき、結構便利だ。まず、要所と要所を繋ぐ一直線なので、迷うことが少ない。
水路には歩道があり、ここは一応、自動車などが入れないことになっている。だがもちろん、バイクが入り込むことはあるし、電気自転車などが我が物顔で高速走行することもあるけれど、信号などはないので使いやすいように感じる。
時々公道に出られる以外は、水際の反対には柵や壁が続く。
花壇のように良く管理されているところもあるし、ホームレスがゴミを集めて、村をつくっているところもある。建物との境界はコンクリートの高い壁か電気の通った安全柵で、反対側の建物の無事のため、設えは強固だ。
なんせ一般論では、人気のない場所・時間での水路の一人歩きは推奨できない。
ナローボートという、水路に特化した交通手段兼住居を停泊させるところなどは、もうすこし治安が良い。けれど、そういうところはロンドン内を血管のように走る水路でも、ほんの短い区域だけだ。
水路脇遊歩道とは、そういうところである。
なのにわたしは明け方の、街灯もないところを歩くことを選んだのだった。
歩きながら、例えばあの橋の下に悪漢が隠れていて襲ってくるかもしれない、そうでなければ後ろから通り魔に刺されるかもしれない、などの妄想が湧き上がった。
内心はびくびくしながら、けれども何ともない顔で、まっすぐ前を見て足を進める。本当は、何度も後ろを振り返って確かめたかったのにも関わらず。
ミステリーの本などで、神隠しに遭遇した人が「呼ばれた」と表現したのを読んだことがある。
わたしは誰にも呼ばれてはいない。ただ、居心地が良い方向へ向かっただけだ。それも気分的に、という一点だけで、頭ではそちらが必ずしも安全ではないことを知っていた。本能的には不安を感じ、呼吸を荒くしていたのに。
だからというわけではないが、一際暗い橋の下を抜けた先、桜の並ぶ歩道の向こうに、人影を見つけた時は、思わず深い息が漏れたのだった。
いつの間にか、辺りは柔らかな光に包まれていた。
日は高くはないはずなのに奇妙に明るいのは、霧が濃く出ているからであるらしい。ミルクを流したような、と言っても誇張ではない。目の前に白い紙を貼りつけて、穴が空いている半径二メートルだけに焦点が合う、そんな感じの風景だった。
不思議だったのは、あれだけ空中の微細な水滴が目をくらませていながら、遠くのものの、影だけは割とはっきりとしていたことである。
大きく見えたり縮んだりする人影は、それ自体が動いているからなのだろう。建物や木の輪郭はほぼ一定、けれどたまに急に距離感が変わるのは、風か、太陽の位置が動いたからだと思う。
足元の水路の水だけは鮮明に、いつも通り濁った茶緑色をしていた。
地面は更に湿気を帯びて、古くなって放置されたコンクリートの割れた隙間から、泉のように水がにじみ出てきている。排水溝は機能が追い付かず、歪んだところを踏んでしまうとかえって泥水を吐き出すなどしていた。
わたしは慎重に、かかとからゆっくりと足をつけて、一歩一歩牛のように歩かなければならなかった。
慣れてくると、足元ばかりを見なくても良くなった。
先ほどわたしに安堵を与えた人は、方向を同じく進んでいるらしく、そろそろ影もぼやけて薄れてしまっている。それとすれ違う誰かは逆に輪郭をはっきりとさせながら、理論上は近づいてきているはずだが、段々形が歪んで小さくなっていく。
魚のひれのように振れる腕が、地面に付きそうだった。
わたしはなんだか、人と距離が取りたくなり、けれども歩みを止めるのは嫌だったので、背筋を反り気味に伸ばして、できるだけ地表から離れようとした。
すると、息がしやすいのである。
首が伸びて、肺に送られた空気が、内側から背筋を伸ばしているのがわかった。
やがて、人とすれ違う。
薄平べったいその人は空から重圧を感じるらしく、曲げた背骨が地とほとんど水平になっていた。
引きずりすぎて途中が破れかけた肘からの皮膚、千切れて中身がひっかかった指が、スパゲティを絡ませたフォークみたいになっている。それを時々、自分で確認している。目に映るそれが重いのか、そうする毎に目が下がって、砂利が擦れるのは哀れだった。
わたしは足元のその人を見たが、あいにく背丈がもう並木を追い越す勢いで伸びていたので、挨拶を交わすことはなかった。わたしはその人を一目で嫌悪したし、言葉をかける気にもならなかったので、それは別にどうでもいい。
他にすれちがったのは、気持ちの良い連中ばかりだった。
伸びた背筋に、ひらひらの手足は軽やかで、たまに途中で破れて二重になっているひともいたが、彼(か彼女)に苦痛の色は見えず、歩くのを楽しんでいるようだった。
それを見ていたら、わたし自身もそうするべきような気がして、うんと伸びたり縮んだりしては、高低差のある空気の匂いを感じ、口に入った虫だか鳥だかを噛み砕いて血の味を舌の上に転がすなど、誰かがしていたことを真似しては、大いに散歩を堪能した。
そうして帰宅すると、日曜日の夕方だった。
歯磨きをして、水を飲んで寝た。
良い週末を過ごせたと思う。