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21.今がその時

 月曜日の登校中に、一羽のカラスに話しかけられた。
 実は彼女は未来人で、意識だけを過去に送信して、わたしに話しかけているのだという。昨今の文明の発展具合を考えれば、やがてそういう未来が来ることも、驚くべきではないのだろう。
 でも、わたしは学校に行かなければならない。
 あ、はい、そうですか、とその場を後にしようとしたのに、カラスは意に介せず言葉を続ける。白と黒のはっきりした羽根色の鳥だから、我の強い性格なのかもしれない。そんな相手に強気にはなれず、わたしに話を無視する権限はない。
 聞けば、彼女の娘の人生に関わる、非常に重大な依頼があるのだという。
 深刻というわりにはぺらぺらと、時々脱線もしながら説明されたところによると、娘が高校でイジメに会い、自殺したという。だから娘のこれからの人生を守るため、横暴の主犯者と同じクラスにならないようにしたい。
「これからの人生って、でも亡くなったと言いませんでした?」
「ん、いいえ。あの、自殺を図ったといいますか、そのくらい精神が参って、学校へいけなくなってしまったという、言葉のあやで」
 少し話を盛ってしまったカラスは、モゴモゴと口の中で言葉を探している。微かに不信感を抱きはしたものの、イジメは絶対に良くないことだから、どうすれば良いのか先を促す。
 カラスの話では、この先の交差点をその子が通るという。
 これから入試を受けに行くところで、信号待ちの間に受験票を落とすだろうが、それを拾わないでほしい。
「そうすれば、同じクラスになることもないわけですから」
 腑に落ちたわけではないが、一応了承はして、わたしは学校へ急いだ。このままだと遅刻だ。最も近いわたしの未来に、影が落ちることになってしまう。
 駆け足で通学路を行くも、余りにいつもどおりだった。もうそのままその交差点も過ぎてしまうかと思ったところでちょうど赤信号になり、止まらざるを得なかった。
 二車線の交通量が多いところだから、信号無視はできない(それに、交通ルールは守らなければならない。もちろん)。それに、ここまでの距離をだいぶ稼げたので、もう遅刻に焦って走らなくてもよさそうだ。
 息を整えてふとみると、女の子が前で、同じく青信号を待っていた。
 校則をきちんと守っています、と言わんばかりの服装、ただしスカートはちょっと短めだ。新品の靴下、磨きたてられたローファーで、今から面接試験があるのだと、すぐにわかった。緊張しているのか、ポケットに手を入れてそわそわしている。
 女の子はカバンからスマートフォンを取り出す。そこに張り付いていた受験票が、わたしの目に留まった。
 とっさに手を出しかけ、思い出しておしりの後ろに両手を隠す。はがきよりも一回り小さな紙切れは、空中を舞い道路へ落ちた。
 わたしは不可触の受験票を、じっと見つめる。
 薄緑の厚紙で、角が曲がってしまっている。鉛筆で下書きして、ボールペンでなぞって消した跡。ちょっと気弱な、けれど真面目な文字。
 ふと疑問が湧く。
 これで、本当に問題解決となるのだろうか。
 今ここで受験票を失くして絶対に言えるのは、今回の試験で女の子が困るということだけだ。二次募集の試験を受けることはできるだろうし、ひょっとしたら票がなくても、なんとでもなるかもしれないのだ。
 それに落ち着いて考えてみれば、カラスが本当のことを言っているとは限らない。
「落としましたよ」
 その声に、我に返る。
 後ろから歩いて来たセーターのお兄さんが、女の子に受験票を差し出しているのが視界に入った。わたしははっと息を呑む。手から手へ、渡される受験票から目を背けることができない。
「わっ。ありがとうございます」
 女の子は慌てつつも深く頭を下げ、はじけるような笑顔をお兄さんに向けた。すぐに青信号に変わり、二人の姿が人混みに紛れて消える。
 交差点の真ん中、でくのぼうのように立ち止まったわたしの肩に、誰かのカバンがぶつかった。

 未来が変わったのかはわからないまま、何事もなく水曜日になった。
 映画館に行こうとしていたら、今度は鳩に声をかけられた。
 全体が灰色で、紫と緑の襟カラーをしたお高くとまった鳥だった。大きなお屋敷の二階のバルコニーから見下してくるので、余計に感じが悪い。
 今日封切られた映画を放課後、門限に間に合うように観るためには、次の上映時間の席を取るしかない。好きなミステリー小説家がストーリーを担当した映画で、なんとしてもネタバレの前に見たかった。そのために一日、スマートフォンの電源を切っていたくらいなのだ。
 だからそんな時に話しかけられて、わたしはちょっと顔をしかめた。
 急いでいるので内容を急かすと、映画館前にクリスマスセーターを着た子どもがいるから、アイスを食べさせないようにしろという。
「機密事項ゆえ、これ以上の詳細は君に知らせることはできない」
 首を前後に降って、低い声で鳩が言う。要請ではなく、下知だった。
 わたしはやるともやらないとも明言せず、おざなりな挨拶で鳥と別れた。
 映画館のある駅前ビルまで、小走りで人の隙間をすり抜ける。今年最後の月となり、街中がライトアップされて華やかだ。雰囲気から来る非日常感、それと楽しみにしていた娯楽への待ちきれなさで、数分前の鳩が言ったことについて、深く考えたりしなかった。
 だって、駅ビルの地階には飲食店がない。
 アイスを持ってそこまで移動したとしても、溶けてしまうので道すがら口にしているはずだ。鳩の命令は、実行不可能なのだ。思い悩む必要は、どこにもなかった。
 だが映画館の前まで来てみると、予言の子どもがちょうど店員からアイスを受け取っているところだった。
 バスターミナル前の広場にクリスマスツリーとマーケットが立っていて、その中に氷菓のスタンドがあったのだ。有名なチェーン店で、期間限定フレーバーと大きく書かれたのぼりを掲げている。
 男の子は幼稚園児だろうか。『今年もいい子にしていました』と書かれた赤と緑のセーターを見せびらかすように胸を張って、上にコートは着ていない。わたしには同じくらいの歳の弟がいて、同じく上着が大嫌いなので、その点について疑問はない。寒くてもアイスは食べるだろう。
 問題はなぜ今、わたしがこの状況を目の前にしているのかということだけだった。
 広場の大時計によれば、あと五分で映画が始まってしまう。
 いや、本編の前に次回作の宣伝部分があるから、もう少し余裕があるか。でも、どうやって食べるのを阻止すれば良いのだろう。あんなにも喜んで、行儀よくお母さんのお支払いを待っているし、許可が出るまで食べるのを我慢もしているのに。
 慌てていたので、別に命令を遂行する義理はないということに、気が回らなかった。後になって考えれば、無視してしまえばよかったのだ。きっと事後の報告はないだろうし、正直あの鳩はいけ好かない。
 でもこのときのわたしは迫ってくる期限に急かされ、思い切って少年のアイスを叩き落とした。
 一瞬の沈黙。衝撃で飛び散ったアイスが、手の裏で冷たい。薄べったい緑の中の、チョコレート粒がアスファルトに滴り落ちる。
「あ、ああ、ごめんなさい。なんてこと、ハチがいたように見えたので、つい手が出てしまって」
 とっさに出てきた言い訳にしては、上出来だったのではないだろうか。
 唖然としていたおかあさんは、「あら、そんな」と言葉が続かない。けれど対応は優しく丁寧で、わたしは本当に申し訳なくて、泣きそうになった。でも、本当に涙を流している時間はない。床に落とされたおやつを見て、固まっている男の子の方が、よっぽど可哀想なのだから。
 わたしは財布から紙幣を取り出して、慌ただしく少年にそれを握らせる。「ごめんね、これで大きなアイスを、お母さんに買ってもらってね」とほとんど懇願した。男の子の悲しそうな瞳が潤んでいて、本当に胸が痛かった。
 「こんな大金は」と止めるお母さんを振り切って、ビルに飛び込む。エスカレーターを走って映画館に駆け込んだ。本心から急いでいたし、あの親子に追いかけられたくなかった。
 映画には間に合った。
 ポップコーンを買う時間がなかったことに、後々まで悔いが残った。

 金曜日の放課後、再び猫に話しかけられた。
 正確には、猫のように遠くからは見えた紙袋だ。某高級スーパーの茶色の紙袋で、クリスマス仕様の赤と白の文字が猫の模様や首輪に見えた。
 通学路、広い芝生がある大きな公園横、違法駐車するトラックの車体の下にうずくまって、猫(のような紙袋)はわたしに噴水に飛び込めという。
 わたしはつま先で蹴って、紙袋(の猫)を道路に出した。
 紙袋は落ちていた割にはあまり汚れておらず、中身はないので軽かった。でもわたしはそれでも、本物の猫のほうが良かった。本物の茶色に白ぶちの猫ちゃんで、話さなければもっと良かった。
 それを二本の指でつまみあげて、入り口から公園内のランニングコースを進む。
 アスファルトに小豆色のペンキで記されているそこは、本当なら通行者には拓かれていない。でもそれが、噴水までの最短距離なのだ。ジョギングをする人はいないので、申し訳ないけれど通してもらう。
 この行動をどういう意味に捉えたのか、手の中の紙袋は感嘆の声を上げ、顔を輝かせてわたしを見上げた。何か言っているような気がした。けれど、わたしの耳には届かない。
 例えば今日、製図の授業があった。
 形を一つ平面に再現するには、数式が必要だ。曲線を引くためのコンパスの幅、溝の角度とパース。数値を全部用意して、それから線と点を繋げていくのだ。電卓と鉛筆と、定規で紙の上に。
 形ができれば面白い。でも、テストでは計算式だけを書けば足りる、と先生は言う。それなら大人しく数学を習った方がましだ、と思うのはわたしだけなのだろうか。
 よりによって、金曜日の、放課後に。
 公園の噴水は、ほとんど反対側の大通りに出る、バラ園の中にある。
 真ん中に小さめの泉があって、細い水の柱の中に、白鳥と戯れるキューピッド像が置いてある。白い大理石製だが、今は苔と汚れで緑色だ。水そのものも濁っている。
 その周りの床には吹き出しもあって、夏はここで水遊びをする子どもで賑わう。でも秋からは断水するので、今はひっそりとしていた。
 バラは冬でも咲いており、周囲のベンチにはちらほら人の影がある。
 紙コップのコーヒーを飲む人、電話をかける人、それぞれにくつろいで見えた。日が暮れかけているのに、勤勉に掃除する庭師の姿もある。週末の花園は穏やかだった。
 わたしは噴水の前へ突進し、立ち止まって紙袋を手で握り潰す。
 猫(紙)の微かな動揺、丸めたそれを泉へと振りかざす。コートの肩が突っ張って、勢いが弱まった。叩きつけてやりたい気持ちを抑えて、わたしは深く息を吸い込む。
 近くのゴミ箱に、それを捨てた。
 本当は、噴水にぶち込んでやりたかった。けれど、そしたら誰かに迷惑がかかるかもしれない。だから、やめた。あとはもう、帰って何もかも忘れて寝たい。
「すばらしい。君は本当に、期待以上だ」
 背を向けた屑入れから、拍手のつもりか、ガサガサと紙が擦れる音がする。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。