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22.垣根の上を飛び越える

 ところが、池の水面は青々とした浮草で埋まっていて、水中の様子は杳として知れません。王様のご自慢の王冠も、キラリともしませんでした。
 そこで王様は、囚われの魔女に向かって言いました。
「もしもお前が王冠を探し出せれば、その身を自由にしてやろう」
 とはいえ、王様にはそんなつもりはさらさらありませんでした。この魔女が何をやったのかはわかりませんが、魔女である限り悪人なのでしょうし、ただ宝物をうまく取り戻すのに使えるものは使ってやろうと、思っただけにすぎませんでした。
 しかしそんなことは何も知らない魔女は、長いもじゃもじゃの黒髪を掻きながら「約束ですよ」と一言呟くと、縛られていた縄を自ら解いてしまいました。そして驚く王様とたくさんの兵士の前で、光る指先でくるりと宙に円を書いたかと思うと、そこにひょいと飛び込みました。
 慌てて兵士が近寄る間もなく、今度はまるでひっくり返った滝か何かのように、光る輪に池の浮草が吸い込まれていきました。そうして水をいっぱいに飲み込んだ光る輪は、最後にお城にいたはずのお妃さまをぺっと吐き出すと、やがて小さく丸まって消えました。
 後に残ったのは、ほんのちょっぴりの水を残した池の中、その底でのたくる魚たちに混じって光る王冠、そして水浸しのお妃様だけ。
「まさか、妖精の輪を使ったのか」
 王様はびっくり仰天、一目散にお城に戻って見ると、大事な金の玉座の上に、山のような浮草が積まれておりました。お家臣たちは突然のことに、どうして良いのかうろたえるばかり。
 そしてその後どこを探しても、あの魔女の姿はありませんでした。
 昔々、魔女が移動するのに、ほうきを使わなかった頃のお話。

ーーーーー

 気がつくとわたしは、公園のベンチに座っていた。
 月のない夜だった。
 それはとても奇妙なことだったので、わたしの頭は我に返ってなお考えをまとめることができず、しばらくそのまま呆けていた。
 つい先程までわたしは、近所の人参畑のあぜ道を歩いていた。
 朝食のための牛乳を切らして、買いに行くところだったのだ。住んでいる団地から一番近いコンビニは、畑を何枚か通り過ぎた、国道沿いの公園前にある。まだスーパーが開いていないので、選択肢が他になかった。
 そう、だからさっきまで、朝だったはずなのだ。
 春休みに入って学校がなく、起床は早朝ではなかった。でも、両親の出勤する前、朝のコーヒーに間に合わせようと慌てたので、八時にはなっていなかったと思う。草木に露の残る時間ではあった。
 側の大きな木の枝を揺らし、湿った風が背中を撫でて、わたしは寒さに身震いした。
 例えば牛乳を切らしていた方が、夢であったとしたらどうだろう。
 この数日は三月末だというのに真夏のような気温が続き、確かにわたしは疲れていた。休みに入ってから不規則な生活をしているし、よく軽い頭痛や、背骨の成長痛に悩まされている。
 だとしたら、この深夜の徘徊こそが夢なのだろうか。
 間違いなく、現在の状態の方が浮世離れしている。妙に広大で、歩道沿いに電灯とベンチが並んでいなければ公園とはわからないこの場所には見慣れたところが一つもなく、空気さえも遠く嗅ぎ慣れない気がした。街灯の色にも違和感がある。妙に黄色っぽいのだ。
 ただ、芝の強く青い匂いと、凍えそうな寒さが幻覚はありえないと主張して譲らない。疑う余地もなく、わたしはここに座って、現実に途方にくれた。
 携帯電話を見ると、接続が不可になっている。
 時刻は八時四十五分。両親のどちらかに電話をかけようとしてみたけれど、回線が利用できないと表示するばかりでどこにも繋がらなかった。思い切って警察にかけてみても、なしのつぶてだ。
 これでもわたしは、クラスの中ではしっかりしている方だと思う。
 ムードメーカーだったり、場の中心にいることはない。でも成績はまあまあ、真面目であることだけは歴代の担任教師が折り紙をつけてくれるだろう。
 ただそれは、勝手知ったる自宅や少なくとも生活圏内でのことであって、真夜中に突然よくわからない場所に放り出されては、平静ではいられない。
 わたしは寒いベンチの上で膝を抱え、じっとしているしかなかった。
 ひょっとしたら、警察が見つけて保護してくれるかもしれないと思った。補導という語感には恐ろしいものがあったけれど、わたしは夜間外出以外に何もしていないのだから悪いようにはされないはず、と自分で自分を励ました。
 わたしは牛乳を買いに行く夢と同じく、中途半端な丈のジーンズを履いていた。黒いTシャツは大きめなので肘まで隠れるけれど、夜風を防ぐには十分とは言えなかった。さっきまでパーカーを着てきたのは失敗だと思ったのに、今は凍えるくらい寒い。玄関で一瞬悩んで、サンダルではなくスリップオンを選んで良かったと思った。つま先がまあるいスニーカーは布製で、かかとを潰さずに履けばそれなりに温かい。
 そうしてどのくらい過ごしたのか、なんの前触れもなく急な悲しみに襲われて、わたしはボロボロと涙を流した。
 小学校五年生でいじめを体験してから、わたしはあまり人間関係が得意なほうではない。でもこういう時、もしも友達とたくさん出歩く経験があったのなら、あるいは違った対応を思いつくことができるのかもしれない。そうでなくても今、この不安を共有することはできるだろう。
 そう考えて、わたしは腕に抱いた膝に額をぶつけた。どちらにせよ、メッセージは送れないのだった。現状電話は、ただ時間を表示する液晶でしかない。
 そのまま財布代わりに愛用している、小さなポシェットをお守りに抱え込む。小銭の入ったがま口が、肋骨に当たって痛かった。
 どのくらいそうして泣いていたのか、わたしはふと、別の不自然に気がついて顔を上げた。
 何も聞こえないのだ。
 これだけ整備の行き届いた公園だ。少なくとも利便の良い場所にあるはずで、広さと生い茂る木々で周囲の建物が見えなくても、車の音ぐらいしそうなものなのにそれがない。人が生きている様子がまるでしない。風の音と、夜に不釣り合いな小鳥の遮る声が耳に届く限りだ。
 それは不気味なほど、穏やかな静寂だった。
 思わず立ち上がる。すると耳の奥でバツンと大きく爆ぜる音がして、視界が急に回転した。二・三歩よろけ、とっさに殴られたのだと判断し慌てて振り返る。けれど、見渡す限り誰もいなかった。反射的に後頭部に手をやるも、こぶも怪我もなく、そもそも痛みもない。
 落ち着きを取り戻して耳を済ますと、街の音が戻ってきていた。
 唐突な雑音に誘われるまま、わたしは明るい方へ歩き始める。ほとんど走ると言っても良い速度で。先程まで気が付かなかったビルの明かり、クラクションとサイレン。とにかく人のいる所まで行かねばと、気ばかりが競った。
 砂利道の行き止まり、黒い柵に囲まれた門には大きな鍵がかかっていて出られなかった。 二車線の大きな通りの向こうには、レンガの建物が行儀よく並んで建っていた。店の看板はなさそうなのに、なぜかちらほらとイルミネーションがされている。なんだかクリスマスみたいだと思った。
 文明の端に触れても、安心することはできなかった。
 知らない街だ。というか、建築様式そのものに馴染みがない。まるで地球の裏側に来たみたいだ。
 アラベスク文様に似た飾り付き電柱には、吊忍みたいにぶら下げられた植木鉢に、パンジーが植えられている。それが通りにずっと続いているので、ひょっとしたら閉園後のテーマパークにでも紛れ込んでしまったのだろうか。ただ、それにしては地面にゴミが落ち過ぎている気がする。
 大声で助けを求めることすら躊躇われるわたしを、まず見つけたのが酔っぱらいだったのは、本当に不幸なことだった。
 物陰から飛びかかられても間に鉄柵があったのは唯一の行幸で、驚いて飛び退いたわたしをあざ笑うが如く、男はけたたましい叫び声を上げた。何を言っているのかさっぱりわからない。色白で目と髪の色が明るい。明らかな外国人だから、わたしの知らない言語なのだろう。彼の血走った瞳とどす黒い顔色に萎縮したわたしには、何かの邪悪な呪文にしか聞こえなかったけれど。
 檻に入れられた動物のように、動けずただ罵倒を受けていたのは、どのくらいのことか。物理的に隔たれ安全は確保されていても、目の前でつばを巻き散らかしているこの人は、形は同じでも別の生き物のようで、目をそらすこともできなかった。
「あ、いたいた」
 頭上から声がした。
 それを確認したかったけれど、どうしても鼻の先の危険から視線を移すのは危険な気がして、できなかった。声は落ち着いていたので、害を受けるとしたら、目の前の男からだと思ったのだ。隙を伺って、いつでも動けるよう、わたしはつま先の方向を変える。
 本当に何の前触れもなく、男が倒れた。
 ぐにゃっと前倒しになった表情も虚ろで、なぜかはわからないけれどわたしはとっさに、男が死んだと思った。意識と全身の力がなくなって、その人の存在そのものがあやふやになるような、頼りない不安に息を呑む。
 その額が地面につくほんの僅かな瞬間、身体が浮いたように見えた。
 男は体制を立て直し、「汚いなあ」と服の埃を払う。打って変わった態度が怖かった。人は本当に怯えると、まず指先が痺れ動けなくなるのだと知る。
 男は数歩下がってから、わたしに両手を降って「大丈夫だよ」と言って見せた。
「ちょっと急ぐから説明は省くね、君はどこから来たの?」
 今更ではあるが、男がわかる言語で話していると気がついた。
 男は先程と同じく、薄汚い格好でアルコールと饐えた臭いをまき散らしている。けれど目には知性の光が宿って、声も少し高いような気がした。少なくとも、分別はありそうに見えた。
 わたしは訥々と、家を出てからのことを説明した。
 口に出してみると、言いたいことが次から次に勝手に湧いて出てきた。自分がどう感じたかなど、状況の特定には何の役にも立たないとわかっているのに、どれだけ怖かったか、悲しくて帰りたいか、動かす唇が止まらない。
 男は口を挟まず、ただ頷いてわたしが落ち着くのを待ってくれた。
 大変だったね、と同情を含んだ声もわざとらしくなく、わたしはこの人を信じても良いような気がした。姿形に変化がなくても、「彼女」が先程の男ではないと、認めざるをえなかった。
 彼女は名乗らなかったけれど、自分は見回り当番なのだ、と紹介した。
 警察ではないのかと疑問をぶつけると、それよりも「ちょっとだけ専門的で、まあ給料はどっこい」だという。うまく言いたいことは掴めなかったけれど、わたしは話を聞いているという証に、首を縦に降った。
「ここね、ロンドン。二千二十一年の首縊りの月なんだけど、イギリスって知っている?」
 彼女は突然、そうわたしに尋ねた。イギリスは当然知っているけれど、わたしは返事に窮してしまう。
「にせん?」
 首縊りとはなんだ?
「年末のことよ。うーん、なんか変な気配とは思ったけれど、輪を踏んだわけじゃないのなら、なんでかな? ちょっと見せてもらうね」
 男の姿が近づき、わたしは反射的に逃げたくなったけれど、目をきつく瞑ってそれに耐えた。
「あ、目は開けて欲しいな。ごめんね」
 言われてそうすると、柵のぎりぎりのところに男の顔があって、伸ばされた指先が、ちょうどわたしの顎を触ったところだった。緊張から、変な声が漏れた。まっすぐにわたしを見つめていた顔が、くしゃっと笑う。
「そっかあ、なるほどねえ。どこの子かなあ、この辺じゃないのは確かだけど。なんか生まれの逸話とか、聞いたことある?」
 確かにわたしは、変な生まれをしている。
 母が妊娠に気が付かないまま、海外出張先で突然産気づいて生まれたのだ。体型変化がわからないくらいの月齢、つまりかなりの早産で、わたしの命はまず助からないと思われた。それが一週間保育器で過ごしたあとはメキメキと丈夫になった。それからは退院するまで、普通の産後のように母と同室だったと聞いている。
 ふうん、と面白そうに、男は女の声で呟いた。
「フランスの子かあ」
「いえ、日本人です」
「ううん、元の国の話」
 でも、気にしないでいいから。変なことを言う。
 ちょっと色素は薄いが、京都と秋田の両親から生まれた、わたしは純粋な日本人だ。力を入れて訂正するも、男はうんうんと自分で納得して聞いていない。わたしはちょっと焦った。昔からそうなのだけれど、ハーフかと間違われる度、わたしはほとんど強迫観念でもって、誤解を解かねば落ち着けない。
「なんでイギリスに来ちゃったのかなあ。初めて跳んだから、座標も時間もがずれちゃったのかもしれないね。帰してあげるから、次からどこか行くときは、慌てちゃだめだよ」
 そして、もし困ったことがあったら、遠慮なく「白い夕焼けの魔女」を頼っていいと言う。
「あ、違うな。君が帰る頃、わたしはまだ無冠なんだった。ええと、チェルシーのメリッサ、そうじゃなきゃ石苔の娘って言えばわかるから」
 でも平穏に生きていきたいのなら、なるべく血液検査はしないようにね。「魔女」の外側、酔っぱらいの男は小首を傾げて微笑んだ。
 次に気がついたら、家の玄関だった。
 ちゃんと牛乳が入ったレジ袋を持っていて、まさに今買い物から帰った場面だった。
 背後のドアは、きっちり鍵がしまっている。狭い玄関で傘立てがあり、屈むと頭に当たりそうになるのが怖くて、いつもドアを半開きにしたまま、靴のかかとを脱いでから入るのに。
 牛乳を買った記憶もない。初めて見る、取っ手付きプラスチックの大きなボトル。
「あら、早かったのね」
 廊下から母が、顔を出して言う。
 客観的に見てみれば、わたしは両親に似ていない。
 でも、だから、それには全く関係はないけれど、十五年後のロンドンに行っていたことは、黙っていようと思った。
 きっと、信じては貰えないだろうし。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。