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10. 毒、いまだ幼く


 母に励まされて、弟が泣きながらヨーグルトを食べている。

 ヨーグルトは弟の大好物の、チョコレートとクルミが入っているやつだ。クルミはわざわざ母が割って、炒ったばかりのものを入れた。母親としてせめてでも、おいしく食べさせてやりたいのだろう。

 幼い弟は嗚咽を殺せないまま、ほとんどえずきながらそれを食べている。それを飲み下すのが怖いのだ。僕は弟に心から同情するが、政策ならば仕方がない。

 どんな声をかけることもできず、僕は台所の窓を眺める。オレンジ色の街頭が、暗闇の中で揺れていた。今夜は風が強い。

 政府が7歳以下の子どもに服薬義務を課したのは、僕が10歳になった後のことだったから、僕自身はそれを飲んだことはない。

 白い粉上の薬で、毎日夜に食品に混ぜて飲ませる。無味無臭、ビタミンなどが配合されていて、身体には良いのだそうだ。もちろん、副作用はない。ただ悪夢を見せるだけだ。

 いったい、政府がなぜ悪夢を集めるのかは、公表されていないのでわからない。

 

 夜の11時頃、弟は決まって目を覚ます。

 大抵叫び声をあげ、自分の声に驚いて泣き出すのだ。部屋が隣なので、目が覚めてしまった弟は、僕があやすことにしている。僕と一緒の方が弟は早く落ち着くので、気が付いたらできるだけ早く弟の部屋に行く。

 母はそんな僕へ、毎日のように恐縮や感謝の言葉を送る。その度に僕は、どっちみちまだ起きている時間なのだから気にしないでほしい、と繰り返す。それに僕自身が、毎日続く夜泣きに、母があたふたしながら憔悴していく姿を見たくなかったのだ。

 目を覚ましたばかりの弟は混乱している。

 僕は声も出さずただじっと、弟を抱きしめる。子ども特有の高い体温に、甘酸っぱい汗のにおい。髪はまだ柔らかく、白い首をいっそう頼りなく見せている。

 僕と弟は10歳以上年が離れているので、ほとんど僕が育てたようなものだ。そんなにも年が離れているのに、十分に部屋を片付けることもできない、ミニカーで遊んでいるような子どもを、慰める術すら、まだ僕は持っていない。

 窓際に逆さまに置かれたガラス瓶の中には、とろりと黒い液体が溜まっている。

 毎日少しずつ増えていくそれを、何度窓から投げ捨てて、叩き割ってやりたいと思ったことだろう。だが、それを保健所に提出できないと、今度は両親が困るのだ。

 さそりが、と弟が言った。

 弟の悪夢はいつも同じだ。サソリが出てくる。ただし、弟は本物のそれを見たことがないので、それはサソリという名前からくるイメージだ。しっぽに毒針を持っていて、赤くて熱くてブロッコリーに似た、消毒液のにおいがする何か。

 ぐずぐずと泣き続ける弟の涙で、しがみつかれた僕の首が濡れている。隙間風に撫でられると少しだけ肌寒い。

「ミルクでも飲む?」

 しばらくしてそう言うと弟は頷いたので、僕は弟を落とさないよう抱きなおすと、そのまま台所に向かった。レンジの中でカップが温まる頃には、弟はすでに泣き止んでいた。

「はちみつも」

 弟はシャツの襟に顔を埋め、くぐもった声で甘えてくる。


 あれは、飲み水に混ぜているって話だよ。

 先週、退屈な講義を最後尾の席で受けながら、田中がそう言っていた。それは嘘だと思ったが、かといって確信も持てなかったので、僕は黙って頷いた。田中はそれを、兄から聞いたのだそうだ。田中兄は自衛官で、今は被災地で支援活動をしている。

 教授が注意しないので、講義室の中はひどい喧騒だが、誰も席を立つ者はいなかった。出席数を稼がなければならないからだ。老教授は背中を小さく丸め、訥々と朗読を続けている。

「飲んでどうするんだ、あんなもの」

 少し声が大きくなってしまった。前列に座っていたショートボブの女の子が振り返り、田中はぎょっとして周囲を見渡したが、それ以上の注目はなかったので、あからさまに胸を撫でおろした。すり鉢状に永遠に降り続けていくような講義室の、永遠に横へと続いて行くかのような、机の上の木目。

 そして、有名な話だけど、と田中が声を潜める。

「日本人は特に不安を感じやすい人種なんだそうだよ。耐性がないんだって、強いストレスがかかると死んじゃうんだってよ」

 ほら、うさぎみたいに。田中は丁寧に撫でつけた髪の上から、さらに顔を隠すかのように、両手で自身の頭を包む。

 さもありなん、と僕は思った。弟は元々神経質な子だ。そうか、だから子どもたちの健康のために、具体的に悪夢として苦痛を抜いてやる必要があるのか。

「でもね、ストレスを全く感じないのもストレスに感じるんだって。矛盾だよね。それに、他のことに気が向いていないと、自分が死んでることに気が付く連中もいるから」

「え?」

 僕の戸惑いの声に、田中は少し辻褄の合わない顔をした。

「だから、飲み水に悪夢を混ぜてるって話だよ。連中、自分では何も感じられないから、子どもから抽出したそれに頼るしかないんだ」

 その点子ども達は柔軟なので、毎晩重圧を感じようとも、健康に問題は起こらない。少なくとも、政府の見解ではそういうことになっている。

 世間にはたくさんの死んだ人間が、そのまま普通に生活しているのだ。それに気が付くことができれば安らかに眠ることができるのに、仕事に追われ、人間関係に四苦八苦しながら、自分が死んでいることがわからない。まるでバカげた喜劇のようだ。

 田中は軽薄に笑った。馬鹿にしているようでもあった。

「お前はいつも、自分の心臓が動いていると感じながら、生活しているつもりかい?」

 教室の中に、黄色いイチョウの葉がいくつか落ちているのが目についた。誰かがいたずらしたものか、風に飛ばされてこんなところまでたどり着いたものか。

全てのことが不毛で、僕には少しだけ遠かった。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。