13.理解
金曜日の午後、歴史の授業で同級生、リーリエが窮地に立たされている。
などと言うと大げさに聞こえるだろうが、彼女の心境を慮れば、あながち遠からぬ表現ではないかと思う。
ちょっと隣の子に耳打ちをしたのを、見咎められたのである。昼食後であること、そして今日はスケジュールの都合で教科担任が入れ替わった特殊な状況であったので、気が緩んでいたらしい。
さらに悪いことに、その教師というのが、ミズ・ラシーヌであった。
普段通りの歴史授業であったら、雑談したところで問題はなかった。マードック先生はテスト至上主義なので、妨害しないなら授業中、何をしていても注意しない。
けれど、何といってもラシーヌ先生は厳格さで有名な老嬢であるし、そんな人に授業中名指しにされては、多感な少女が震えあがってしまうのも、仕方のないことかもしれない。
クラス中が、静まり返ってしまっている。
リーリエは中等部からの編入生なので、老教師の噂だけしか知らないのだろう。だから余計怖いのだ。
わたしは初等部での作法の授業で、ミズ・ラシーヌに教わった経験がある。だから知っているけれど、彼女は厳しいが、決して理不尽ではない。ただ、失礼を承知で言うと、見た目が怖い。きっちり巻いたシニョンと年中長袖のスーツ姿は隙がなく、肌色に合わない化粧は表情をきつく見せる。
「わたくしの授業に問題がありますか」
「いえ、違います、ごめんなさい。歴史があんま好きじゃないんです」
リーリエは正直にそう答えた。
多分、クラス中が息を飲んだと思う。けれどもリーリエ本人は、一言発したら気が楽になったのか、ぺらぺらと余計なことを付け足した。
「歴史がっていうか、近代史は面白くないでしょう。お金や土地欲しさに戦争して、バカの一つ覚えみたいだし、それでいて結構資料が残っているから、実はこうだった、みたいなミステリーやロマンス要素がなくて」
同級生というだけであまり話したことがないリーリエだが、明るく活発な性格で、裏表がないので好感が持てる。
けれど、その人懐っこさは、今は敬語で少し隠して欲しかった。
トロトロと穏やかな午後の日差し、温かな明るい教室。それなのに人心は穏やかにあらず。
ここが地獄か。
「なるほど」
しばらくして、ミズ・ラシーヌが重々しく頷いた。
「言いたいことはわかりました。用意された資料を読むだけ、という授業形式には、わたくしも大いに不満があるところです」
先生は教壇の上、マードック先生が用意したらしいプリントの束を置く。たったそれだけで、室内の空気がほんの少し、吸いやすくなったような気がした。
「意見を交換しましょう」とミズ・ラシーヌが言った。
「侵略は悪か、と質問します」
ちょうど教科書では、片っ端から来襲し、植民地化し、国が国を奪い合っている時代を語っているところだった。
挙手の上なら、自由に発言を許可すると、先生は宣言した。「どんな意見でも、本心からであるのならば、それは尊重されるべきですからね」。
わたしの席は後方なので、皆が顔を見合わせるのが、良く見えた。先生の意図を測りかねて、足踏みを踏んでいる。
「悪なのではないでしょうか」
おずおずと、手を挙げたのは優等生のアントニアであった。
「理由は?」
「その土地に原住する民を排除し、問答無用で財産を没収する行いには、疑いようがないからです」
「きわめて現代的な意見と言えますね」
ミズ・ラシーヌは是とも否とも言わなかった。教室のどこかで感嘆のため息が湧き、後ろ姿のアントニアが、照れたのが見える。
次に発言したのはミカエラだった。
「でも、自分の国でお金にならないから、他人から盗もうって考えは、時代に関係なく絶対に悪いことじゃないんですか?」
「挙手しなさい」
臨時の歴史教師は細かい。
ぐぬ、とかううん、とかミカエラが口ごもっている間に、コブラの手が上がる。これには、わたしはちょっと目を見張った。大人しくて引っ込み思案のコブラは、まず自分から授業中に発言しない。
「あの、わたしもあまり歴史に詳しいほうではないのですが、誰を以て侵略者と呼ぶんでしょうか」
クラスの全員、そしてミズ・ラシーヌまで黙ってしまったので、コブラは自分の二つあるおさげ髪で、顔を隠すようにうなだれた。それでもなんとか、
「つまり、その、責めるべきは『実際にその地に赴いた人』ですか、それとも『それを命じた人』ですか」
と呟いて、何人かは、彼女の言わんとするところに思い当たった。
「今よりずっと危険が多かった時代なんですよね、地位がある者は、わざわざ自ら航海に繰り出したりしないのでは」
と、言ったのはマリア。
「王さまに命令されて仕方なく仕事で、っていうこと?」
これはエミリー。
「代理人を立てる場合もあるんじゃない。ほら、スピーカーが決闘の話をした時さ」
つい口を滑らせたエドナが、慌てて口元に手をやる。
スピーカーというのは、生徒の間でのみ使われるマードック先生のあだ名だ。何人かは青ざめたり緊張した顔でミズ・ラシーヌを振り返ったが、老嬢は澄ました顔で、それを黙殺した。
決闘の話というのは、先生が以前授業中に披露した余話で、昔は名誉のための決闘という、私闘が許されていた。
けれど、必ずしも汚辱を注ぎたい本人が実際の場に現れるわけではなく、代理を立てる権利が、ちゃんと法律で保証されていたのだ。代理人対代理人ならまだ良い方で、ひどい時にはその代理まで立てることもあったらしい。代行業なんて職業まであり、名誉ではなく財力勝負になっただけ、という話だった気がする。
興が乗ってくると、全体の雑談化するのは、しょうがないことかもしれない。
先ほどまで挙手にこだわっていた先生だが、勢いを殺すのは意に反するらしく、静かに教室の流れを見守っていた。
イスをずらしたり後ろの友人に話しかけたり、意見が口々に交わされている。
「今だって、政治家とかが決めた戦争へ、徴収された兵士が送られてるんだもんね。その人が開戦したわけじゃないんだし」
「うーん、でも、被害者にとっては相手がどんな立場からであろうと、加害者という括りに変わりないのでは?」
「あれはどう思う? 宣教師かなんかがさ、未開地へ「先駆者として、文明化してあげている」ってやつ」
「傲慢だけど、一理ある気もする」
「文化が大きく発達するきっかけが、敗戦って場合もあるんだもんねえ」
気が付けば、壁の時計はあと数分で、チャイムを鳴らす予定である。
歴史のクラスがこんなにも早く、終わりそうなのは初めてだ。先生の話を聞き流して、テストに出そうな単語にマーカーを引くだけだった授業の、違う側面が見えたような気がする。
「そもそも、侵略ってどういう意味かしら」
「え?」
インディアナが自分へ呟いたのであろう一言は、けれど良く通る声であったので、室内を一瞬沈黙させた。
本人は国語辞典を広げていたので、集まる視線に気が付かず、あくまでマイペースに口を尖らせる。
「侵略。武力による略奪、というニュアンスで使わないこともあるんじゃない? 侵略的外来種……とか」
「ーー本来の住処ではない領域に入り込む、という意味かな?」
「動物だったら、連れてこられた動物だよね。来たくて来たわけじゃない」
あはっと声を溢したのは、リーリエだった。
「それって、今日のラシーヌ先生じゃん」
「……ふふっ」
思わず浮かんだ老嬢の微笑みは、チャイムの音によって一瞬でかき消された。