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9. 百年目の


 髪を切ることにした。理由は簡単、失恋したからだ。

 別に、あんな男と別れたことが、ショックだったわけじゃない。前世紀の女性観を押し付けられては、あれが嫌だから直せ、これが鼻につくからやめろだの、言われなくなって清々する。最後にガツンと言い返してやらなかったことだけが少し気がかりだが、話の通じない相手と会話するのは疲れるし、これが最良の結果だろう。

 まあ、そんな感じで、美容院の予約をとったわけだ。

 散髪はある種の儀式だ。なんであんな男に引っかかっちゃったんだろう、とか、無駄な時間を過ごした、とか色々な気持ちをリセットするためのもの。少なくとも、雑誌にはそう書いてある。

 それで、まず母に連絡を取った。

 土曜日の昼頃実家に行き、食後にオレンジの皮の入ったお茶を飲みながら、さりげなく髪を切りたいのだけど、と切り出すと、母は片眉を上げてわたしを見た。

「いいんじゃないの」

 それからいそいそ週刊誌を持ってきて、今話題の女優の髪型をいくつか教授された。背が低いから短い方がいいとか、丸顔だからこの前髪がいいとか。てっきり止められるかと思ったのに、なんだか拍子抜けしてしまう。

「まあ、一応おばあちゃんにも相談してから切りなさいな」

 母は一通りページを繰ってしまうと満足したらしく、ぬるくなったお茶を口に運んで、そう言った。わたしはその横顔を見つめ、黙って頷く。年の割にたっぷり黒い、母の髪。ちゃぶ台の向こうでは、畳に転がって、父が本を読んでいる。

 おやつを食べてから実家を出た。

 帰り道の地下鉄で、祖母のスマートフォンにメッセージを送った。

 祖母は八十歳を超えた未亡人だが、とても年を感じさせない活動家だ。たいてい何かの教室に行ったり、お友達とお茶に出ていたりして家にいない。迷惑になるといけないので、用事は電話で済ませる方が楽な時でも、まずメールを送る。

 五分も経たずに、スタンプたっぷりの返信が来た。

『前からショートが似合いと思ってました★ おばあちゃん的にはボブが好き♡ だけど、ベリーショートのかりあげも素敵よって松ちゃんが言ってるよ⇒⇒⇒いま一緒にいるの(⋈◍>◡<◍)。✧♡』

 いつもながら、祖母のメールは目がちかちかする。松ちゃんとは、お隣の団地に住む祖母の友人で、こちらもバイタリティ溢れる老嬢だ。二人はこんな風に年を取りたいと思う、わたしの人生の目的でもある。とにかく、親子三代の許可は取れた。

 わたしはその夜たっぷり時間をかけて櫛を通し、それを髪への別れとした。


「これ、本当に切っちゃうんですか?」

 ウェブ検索で一番評判の良かった美容室、キャンセルが出たので、と運よく取れた散髪の席で、店長がいかにも惜しそうな顔で繰り返した。二階建ての美容サロン中から、従業員が集まってきて、わたしの髪を観察している。

「こんな髪、今時滅多にお目にかかれないんですけどねえ。もったいないなあ、また百年伸ばすのは大変ですよ」

 はあ、とわたしは生返事をする。物心ついてから、ずっと言われ続けてきたことなので、それはよく知っている。だからって、儀式は中断できない。今日、わたしは生まれて初めて髪を切るのだ。

 いったい、昔の女性は髪をとても大事にしていたとかで、こんな髪も一昔前までは珍しいものではなかったのだそうだ。祖母、母、娘と髪を切らないでいれば、百年なんてすぐ経ってしまう。そういう髪には付喪神が宿り、それそのものに生命が吹き込まれて、女性に幸せを運んでくると言われていた。

 実際、今になって思い返せば、わたしの髪はあの男が好きではなくて、よく目に入ったり、絡まったりしていやがらせをしていたように思う。艶があって色の深い、複雑な髪型にしても一切崩れない、便利なだけの髪ではなかったのだな、とわたしは少しだけ感傷に浸る。恋は盲目。気が付かなくてごめんね。

「ボブがいいんですけれど、なにかおススメ、あります?」

 そう尋ねると、ああ、と店長は一緒に卒倒せんばかりの儚いため息をついた。美容師であっても、長い髪をバッサリと切り落とすことはあまりないらしい。まして付喪髪ともなれば、一生に一度出会えるか出会えないか。それを、バッサリと。一息に。

「あの」

 後ろの方で見ていた、白に近い金髪の若い美容師が、おずおずと挙手した。

「どうしても切るのでしたら、それ、寄付しません?」

 聞けば、染めたりパーマをかけたりしていない髪なら、かつらを作ることができるのだそうだ。この美容院が提携している施設では、主に小児がんの患者をサポートしているらしい。

「これだけあれば、いくつかかつらが作れます。美しい髪ですし、喜ばれますよ」

 わたしはすぐに、そのアイディアが気に入った。本当はほんの少しだけ、長い間一緒だった髪との、決別を惜しむ気持ちもあったのだ。でもわたしの元を離れても、第二の人生が待っているのならば、心置きなく切ることができる。

 金髪の青年を見る。ちょっとふやけているけれど、なかなかかわいい顔をしている。でも、そちらの方は、まだ早い。わたしは青年に特別注意を払うのはあえて避けて、にっこりと笑った。

「おねがいします」

 青年は店長が指示する通りに、丁寧にわたしの髪をみつあみにすると、上と下できっちりと糸で結んだ。

 わたしはその瞬間目を瞑って、この髪がどこかの女の子へ貰われて行くことを想像した。わたしにしてくれたように、付喪髪が次々と素敵な髪型になって、女の子を楽しませてくれたらいい。

 じゃくり、と音がして、ハサミがわたしと髪を切断する。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。